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空に生き、空に死す〜法政と航空の発展に尽力した中野勝義〜

日本を代表する航空会社である全日本空輸株式会社(略称:ANA)。1930(昭和5)年に本学法文学部を卒業した中野勝義は美土路昌一(みどろ・ますいち)初代社長の右腕としてその設立に携わり、民間航空界のパイオニアとして活躍しました。

イメージ中野勝義の肖像写真(1957年頃)

中野は1904(明治37)年、北海道上川郡東旭川村で屯田兵二世として生まれました。旭川中学校では「村長」と呼ばれ、そのあだ名のとおり、少年時代からリーダー気質を発揮していたようです。

猛勉強の末、1924(大正13)に上京し、本学の予科一部に入学。中野は、『法政大学新聞』の創刊を求めましたが認められず、学生に呼び掛けてストライキを決行し、当時の松室致学長に直談判して、学友会報としての発行許可を得ます。他にも、新校歌の作成、応援団の創設、航空研究会の創設など多方面で活躍しました。

卒業後に入社した朝日新聞では航空部を創設し、恩師内田百閒会長らとともに本学航空研究会による学生訪欧飛行を成功させ、その後も、日本の民間航空の発展に尽力します。雑誌『飛行日本』の創刊もその一つで、中野自身が編集・発行人を務めました。

イメージ『法政大学新聞』第1号(1928年10月18日)。
学友会報別冊として発行された

イメージ中野が編集・発行人を務めた『飛行日本』
(大日本飛行協会、1942~1943年)

1945年5月の空襲で、本学も一部校舎を残して焼け野原となりましたが、その再興を支えたのも中野でした。戦後、失業した民間航空関係者の失業救済を目的に中野が設立した興民社が、折り重なるがれきを除去し、急ごしらえの校舎を建設したのです。

法政大学理事に就任後も、野上豊一郎・大内兵衞両総長を支えて、母校再建のために奔走しました。日本の大学初の通信教育部の開設、法政大学出版局の創設、大原社会問題研究所の合併はいずれも中野の主導によるもので、両総長とともに戦後の本学の基礎を築きました。

また、航空事業においても、興民社を基盤として設立された日本ヘリコプター輸送会社を経て、朝日新聞航空部の上司であった美土路昌一と共に全日本空輸を創業するという偉業を成し遂げています。

しかし、全日本空輸の事業が軌道に乗り始めた1960年、自社小型機で帯広へ向かう途中に墜落事故により56歳の若さで急逝しました。中野の将来に大きな期待を抱いていた大内総長は、彼の突然の死を嘆き悲しんだと伝えられています。

取材協力:法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2019年5月号)