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法政大学校歌誕生エピソード
佐藤春夫・近衛秀麿の論争の末に生まれた名校歌

佐藤春夫・近衛秀麿の論争の末に生まれた名校歌

イメージ近衛秀麿(左)、佐藤春夫(右)

「若きわれらが命のかぎり ここに捧げて愛する母校」

大学校歌の中でも名曲といわれる法政大学校歌が制定されたのは1931(昭和6)年1月のこと。それまでは、現在行進曲として歌われている「名大いなれ法政」が校歌でした。1923(大正12)年、旧制大学令に基づく法政大学としての新たなスタートという、名実ともに大学としての昂揚を背景に、為光直経作詞、瀬戸口藤吉作曲による「法政大学新作校歌」(現「名 大いなれ法政」)が誕生したのでした。

イメージ近衛秀麿筆といわれる新校歌楽譜(1930年)

市ケ谷キャンパスへの移転、新校舎竣工、学部改組と、大正から昭和にかけてのさらなる発展拡充は新校歌作成運動を巻き起こし、1929(昭和4)年、学生 の間に校歌作成委員会が結成されました。当時の学生委員倉田英氏によれば、校歌をつくろうという考えは、全学生の総意であり、「学生委員が、帽子を持って 『校歌の費用を寄付してくれ』と学生の間をまわると、すぐ帽子は銀貨でいっぱいになった」といいます。
学生の投票により、作詞は当時本学予科講師 だった佐藤春夫、作曲は近衛秀麿に決定しました。ところが、「佐藤先生が最初に作った歌詞は『わかき我らが 血潮のかぎり ここに捧げて愛する母校......... よき師よき友 つどひ結びて 勤勉快活 高邁明朗 世紀の道に 刈るや荊 法政大学 おゝわが母校』といったかたい文句であった。近衛はこれを見て『これ では作曲できぬ』とクレームをつけ2人の間に激しい論争があった。その後佐藤先生は未完のまま郷里熊野に隠退されたので、私が熊野まで行って歌詞を貰って 来た。近衛さんが作曲したのは洋行する途中のシベリア鉄道の車中であった」(倉田氏)
この校歌が神宮球場で初めて歌われた1930(昭和5)年 秋、本学野球部は東京六大学野球で初の優勝を成し遂げました。翌31年8月には本学航空部の「青年日本号」が訪欧飛行に成功し、目的地ローマに到達して 「世紀の壮挙」と賞賛されました。まさに「青年日本の代表者」として意気軒昂(けんこう)な時代でした。

イメージ佐藤が近衛に渡した最初の歌詞原稿

イメージ2人の間に論争が続き、佐藤が近衛に送った歌詞の説明の文面(左)、佐藤春夫自筆の新校歌歌詞(1930年)(右)