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新収蔵「和仏法律学校時代の卒業証」

薬袋正一氏(薬袋家所蔵)。本学卒業後の詳しい消息は不明だが、陸軍大臣、朝鮮総督などを務めた南次郎とも親交があり、政治への関心は高かったようだ

和仏法律学校時代に撮影したと思われる、薬袋正一氏の級友との記念写真(薬袋家所蔵)。右端が正一氏。左端は山本喜勇氏、立っているのは水野吉太郎氏。水野氏は卒業後に弁護士となり、1909(明治42)年に当時の満州・ハルビン駅で起こった伊藤博文暗殺事件の犯人安重根(アン・ジュングン)の主任弁護人を務めたことで知られる。山本・水野の両氏は7月に卒業している

2014年3月、本学の前身である和仏法律学校時代の卒業証が本学大学史センターに寄贈されました。山梨県出身の薬袋(みない) 正一氏(1876~1942)の卒業証で、現在の卒業証書(学位記)に比べるとかなり大きく、新聞1ページほどの大きさがあります。

寄贈のきっかけは、薬袋正一氏の甥にあたる薬袋精一氏から本学への問い合わせでした。精一氏はかねてから薬袋一族について調べており、その中で薬袋本家に保存されている史料類の中から出てきたのが、正一氏の卒業証でした。正一氏が本学に入学した経緯は不明ですが、精一氏によれば、父親・薬袋義一氏(1854~1903)が、山梨県会議員などを経て衆議院議員となり立憲政友会創立に尽力した政治家だったこともあったようです。正一氏の本学卒業前後の消息や、卒業証にある「第一号」の意味などを知りたいと考え、本学大学史センターへ問い合わせたのでした。

卒業証は史料としても大変貴重なもので、「第一号」は学籍番号ではなく、当時は卒業成績を意味し、正一氏が首席で卒業したことを表しています。注目されるのは「明治32年11月」という日付です。当時の卒業月は7月で、11月は特別試験による卒業でした。これがどのような制度かは不明で、何らかの事情で卒業が遅くなった学生への特別措置だったと思われます。この年の卒業生は7月が52人、11月は正一氏を含めて7人でした。

また、明治32年は梅謙次郎が校長に就任した年で、以後、和仏法律学校は拡大路線に移り『法学志林』の創刊、特別科の設置などさまざまな改革が始まります。教授陣容も梅をはじめ、穂積陳重、富井政章といった一流どころが名を連ね、後に総理大臣となる若槻礼次郎の名も見えます。明治30年代後半の卒業証には倍近い数の教員名が記され、和仏法律学校の発展ぶりがうかがえます。

卒業証は薬袋本家の薬袋幸氏より寄贈いただき、3月24日、幸氏と精一氏に増田壽男総長(当時)より感謝状が贈られました。

取材協力:
薬袋精一氏
法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2014年度5月号)

薬袋家より寄贈された薬袋正一氏の卒業証