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学問の木

生命科学部応用植物科学科 長田敏行教授

学問あるいは科学を象徴するいくつかの樹木が知られている。2010年3月の法政大学小金井キャンパスの理工学部・生命科学部の年末合同教授会懇親会の席上で、装いを新たにする小金井キャンパスの中庭に学問の木を植えたらと発言したところ、多くの方から賛同をいただいた。そこで、その実現に動いたところ幸い東京大学附属小石川植物園より入手することができ、2012年3月にその希望を達成することが出来た。それらは、1) メンデルのブドウ、2) ニュートンのリンゴ、3) 楷(かい)の木である。1)、2) については、疑いなく理工系の学問の木として意味づけが出来るが、3) は学問の木ではあるが、孔子に因んだ東洋の学問の木ということで、当初私はいささか逡巡の想いもあった。しかし、当時の小金井事務部高岡啓二部長がぜひともそれも併せてと言われたので入手方に努めた。なお、医学方面では医聖ヒポクラテスの木としてプラタナスが知られているが、それは対象にしなかった。以下にこれらの木の由来について概略を述べる。

1.メンデルのブドウ

メンデルのブドウ

メンデル(Gregor Mendel、1822−1884)は遺伝学の創始者であり、エンドウの交配実験から遺伝法則を発見したことは良く知られている。しかし、その偉業も生前には認められていたわけではなく、認められるようになったのは1900年の再発見以降である。メンデルが生存中は、第一義的にアウグスチヌス派修道院の院長であり、むしろ、動植物の品種改良、気象学への貢献ではかなり知られていた。その実用的な品種改良の一環として、ブドウの交配実験を行い、修道院の庭にはブドウが植えられていた。1913年に東京帝国大学理学部の三好学教授はヨーロッパ旅行を行ったが、その途次にメンデルの故地ブルノを訪問し、そのブドウを所望した。その苗は翌年シベリア鉄道経由で送られてきて、東京大学附属小石川植物園に植えられ、今年で100年目を迎える。ところが、ブルノは当時オーストリー・ハンガリー二重帝国(K. u K.)のモラビアの中心都市であったが、第一次世界大戦によりK. u K.は敗戦し、チェコスロバキア共和国が成立した。第二次世界大戦後には、チェコスロバキアは旧ソ連を盟主とする社会主義圏に属することとなった。旧ソ連では、1926年頃よりメンデル遺伝学に基づく正統的遺伝学を否定する、ルイセンコ(T.D. Lysenko)によって主張された獲得形質の遺伝を中心とするいわゆるネオ・ラマルキズムが跋扈した。問題は科学的事実に基づかない似非科学であり、むしろ政治的プロパガンダであったことである。ルイセンコはスターリンの庇護の下にあって、正統的遺伝学者のヴァヴィロフ(N. Vavilov)は反革命的であると迫害され、獄中で死ぬこととなった。この影響は東欧圏にも広がり、チェコスロバキアのブルノでは修道院は閉鎖され、正統遺伝学者は迫害され、その影響によりメンデルブドウも失われてしまった。
その後、1989年のベルリンの壁の崩壊を切っ掛けに、チェコスロバキアでもビロード革命がおこり、民主化がもたらされた。ブルノの人々は、絶えてしまったメンデルブドウが日本に残っていることを知り、その里帰りを希望した。偶々、1999年には私はヨーロッパ分子生物機構(EMBO)のアソシエート・メンバーに選出され、新メンバーは他メンバーの前で講演するということで、その会がプラハであった。当時私は小石川植物園の園長もしており、植物園としては送り返したブドウが根づいているか見てきてほしいというので、ブルノまで足を延ばして、ブルノのメンデル農林大学の植物園で無事成育していることを確認した。更に、2000年にはメンデル法則再発見から100年記念の国際会議をブルノで開くので参加してほしいという要請を受けたので参加し、会の冒頭で挨拶した。主催者はメンデルブドウもチェコの民衆の受けたと同様な苦難を受けていると述べた。その頃までに、チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分かれていた。 中庭のメンデルブドウにはそのような歴史があることを思い浮かべて頂き、遺伝学の創始者メンデルのことを思っていただけたらと思う。

2.ニュートンのリンゴ

ニュートンのリンゴ

ニュートン(Sir Issac Newton、1642−1727)が、古典物理学の巨人であり、卓越した位置にあることは改めて述べるまでもない。今日でも物理学徒は、ニュートン祭を祝う所以である。そのニュートンは、1665年から二年間ケンブリッジでペストが蔓延したため、故郷リンカーンシャーのウールスソープに退避していた。そして、この間にそれまでの実験的成果を下に思索を深め、彼の三大発見がまとめられ、発表されたので、この時期は驚異の年と呼ばれている。その彼の実家の庭にあったリンゴのクローンの子孫が中庭のリンゴである。1964年にイギリス物理工学研究所サザーランド卿(Sir Sutherland)から、当時の日本学士院長柴田雄次博士に送られてきたものである。当初はウイルス病に感染していたので、一時植物防疫所で保護観察され、ウイルスの除去が確認されて後に、東京大学附属植物園に植えられたものである。
ニュートンは落ちるリンゴを見て万有引力を思いついたとしばしばいわれるが、これはニュートンが言ったのではなく、後の人が言ったことであるので、この点は割り引いて考える必要があるが、このリンゴは三大発見の目撃者であるという点で重要である。品種名はケントの花(Flower of Kent)であり、貴重なのは他の現代的な品種改良の過程を経ていない、原種に近いリンゴであることである。最近の遺伝子解析の結果によると、リンゴの故郷は中央アジア天山山脈の北カザフスタン付近で、ローマ時代にはヨーロッパに広がっていたことが明らかになっている。やがて、大きくなり果実を付けるようになるまで見守っていただきたい。

3.楷(かい)の木

楷の木

楷の木は、儒教の創始者孔子(552BC−479BC)に因むもので、孔子の故地曲阜には、孔子の廟があり、その後ろに孔林があり、そこには様々な樹木が植えられているが、その中で最も著名なのが楷の木である。というのも、孔子の没後その地にあって喪に服した子貢によって植えられたものであるからである。このような由来で、大正時代に楷の木の種子が導入され、湯島の聖堂、岡山県の閑谷(しずたに)学校、栃木県足利学校などに植えられており、それらは大きく育っている。学問の木といった最初は、岡山藩主池田侯により創立された閑谷学校であるとのことである。植物学的には、スナックでおなじみのピスタチオであるが、この木の実は食用にはならない。そういった由来で、どちらかというと文系の学問の木かもしれないという思いがよぎったが、小柴昌俊教授がノーベル物理学賞を授与されたとき、東京大学理学部一号館の前に、記念植樹されたので、理系キャンパスでも構わないと思い直した。また、宋儒朱子学は自然に関する考察があることにも思いを致すことが出来よう。なお、この木は雌雄異株であるが、雌雄の判定は成熟しないと分からないので、現在の木が雌雄のいずれであるかは分かっていない。また、当初、依頼した東京大学附属植物園にはこの株はないということであったが、偶々見つかって入手できたという幸運もある。やがて大きくなり、株分けできれば法政大学の市ヶ谷キャンパス、多摩キャンパスに植えられてもおかしくないと思う。特に、大内兵衛元総長の揮毫になる、論語の学而篇と呼応して意味があろうと考える。

このように学問のシンボルとなるべき三本の木があり、ブドウは生命科学の、そして、リンゴは物理化学の象徴である。また、楷の木は、より広い学問分野を代表としている。これらが小金井の行く末を見守り、また、励ましてくれると思うことは意義あると考える。