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書に見る松室致初代学長の文人気質

イメージ寄贈された松室致書の掛け軸

イメージ松室の書画帖(牡丹)

イメージ松室の書画帖(梅)

イメージ「謙齋」の揮毫による第一校舎入口の校銘板(1935年卒業アルバムの掲載写真)

イメージ松室致肖像写真。亡くなるまで本学学長、枢密顧問官の任に当たっていた(1932年卒業アルバムの掲載写真)

本学が大学令に基づいて大学に昇格した際の初代学長・松室致(まつむろいたす)の筆による掛け軸が、2017年9月、北海道在住の佐藤武氏より寄贈されました。書き付けから、司法大臣(現・法務大臣)だった松室が1917(大正6)年に金沢監獄を巡視した際、旅館古今亭において、典獄(刑務所長)を務めていた、大野四郎五郎(佐藤氏と同じく北海道出身)に書き贈ったものと分かります。高さ2メートルを超える大幅で、松室が用いた雅号「謙齋(けんさい)」の落款とともに、「天晴れて一雁遠く海濶(ひろ)く孤帆(こはん)遅し」という李白の漢詩の一節が力強い筆致で書かれています。

1852(嘉永5)年、小倉藩(福岡県)の藩士の家に生まれた松室は、司法省法学校(東京大学法学部の前身の一つ)でフランス法を学びます。同校を卒業後は司法官僚として経歴を重ね、司法大臣も2度務めました。その傍ら、本学の前身である東京法学校・和仏法律学校の教員を務め、1913(大正2)年に専門学校令下の法政大学の学長に就任。以後1931(昭和6)年まで約20年間学長を務めました。

松室の学長としての最大の功績は、現在に連なる総合大学としての基礎を築いたことです。まず、(旧制)大学への昇格に向けて、教員体制や組織の整備、教育内容の充実を図り、千代田区富士見町(現・市ケ谷キャンパス)に3階建ての第一校舎を建設。1928(昭和3)年には、北軽井沢(群馬県長野原町)に取得した広大な土地に「法政大学村」(現・北軽井沢大学村)を建設します。

司法官として非常に厳格な人物として知られた半面、文学や書、絵画など文化的な趣味も持ち合わせていたようです。法政大学史センターの資料には、松室が墨絵と漢詩を描いた書画帖もあります。また、第一校舎のアーチ形玄関の上には、松室の揮毫(きごう)による大学名が掲げられていました。

2016年4月、校友会北九州支部の尽力により、福岡県京都郡みやこ町の小笠原神社境内に松室の顕彰碑が建立されました。同碑や諸資料によって、松室の功績は今後も後世に伝えられることでしょう。

取材協力:法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2017年度11・12月号)