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法政大学ゆかりの地(1)白馬八方尾根スキー場リーゼンスラロームコース

イメージ1979(昭和54)年、当時66歳の福岡孝行教授

1911(明治44)年、オーストリアより来日したテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が、日本に初めてスキーを紹介しました。

その2年後に出生し、後に本学の第一教養部でドイツ語と体育理論の教壇に立つ福岡孝行教授は、学習院中等科に在学していた14歳の時、初めてのスキーを経験します。学校では陸上競技部に所属し、最先端のトレーニング方法が書かれた専門書を読むために、独学でドイツ語を習得するほど熱心に取り組んでいました。インターハイでも複数の競技で優勝を飾りましたが、猛練習が災いして気管支を痛め、引退を余儀なくされます。

これをきっかけに、それまでは陸上競技のトレーニングとして行っていたスキーや登山に傾倒していきます。関・燕温泉(新潟県)でスキーの教えを受け、自らもスキー技術の実地検証を重ねる一方、スキーに関するドイツ語の文献に当たり、独自の技術論を確立します。

福岡は1939(昭和14)年、山口華子(レルヒ少佐の通訳を務めた山口十八の娘)と結婚。やがて時代は太平洋戦争(1941~1945年)へと突入しますが、出兵直前に気管支障害から除隊となり、長野県北安曇郡北城村細野(現白馬村八方)へ疎開します。雪深いこの地でもスキーに勤しみながら、見慣れぬ道具で運動する姿に興味を持って自然と集まった青年や子どもらに、スキーを教え始めます。終戦を迎えた後も、北城村で自給自足の生活をしていた福岡は、ある冬の日、薪を集めに分け入った八方尾根で、理想的なスキーコースとなりうる場所を発見しました。

イメージ福岡が疎開した、1944(昭和19)年ごろの北安曇郡北城村細野(現白馬村八方)の風景

イメージ北安曇野郡に疎開していたころの福岡の家には、毎晩多くの青年が集まり、囲炉裏を囲んでスキー談義や村の将来、スキーコース開拓について熱く語り合っていたという

「この尾根には、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヘン(ナチス政権下でオリンピックが開催された地)やイタリアの名峰マルモラータにも引けを取らない、素晴らしいコースが作れるはずだ。オリンピック招致も夢ではない」と直感した福岡は、村の青年らを巻き込み、スキーコースの開拓に乗り出します。当時の白馬村には、夏期の登山客向けに民宿が建ち始めていましたが、「ここに本格的なスキーコースがあれば、冬場も客を呼べる」と山の地権者などを説得してまわり、自らも夏場に木を切り、木株を堀り起こし、それらを冬場にソリで下ろすというまったくの人力で、1946(昭和21)年に「リーゼンスラローム(大回転)コース」を切り拓きました。これが現在、世界でも有数のスキーリゾートとして知られる白馬の礎となったことは言うまでもありません。

福岡は1981(昭和56)年に、法政大学のスキー教室に随行し訪れていた白馬村で急逝しますが、それから17年後の1998(平成10)年、彼の先見が現実のものとなりました。この地で「長野オリンピック」が開催され、「リーゼンスラロームコース」の一部が、ダウンヒル競技で使用されたのです。

取材協力 : 福岡孝純スポーツ健康学部教授(福岡孝行教授ご子息)

イメージ1957(昭和32)年に発行された『オーストリア スキー教程』(法政大学出版局)。福岡はこうした訳本のほか多数の学術書籍を執筆し、日本のスキー文化発展に大きく貢献した