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法政大学 多摩キャンパス内史跡 日本のポツダム宣言受諾を世界に発信した「多摩送信所」跡

日本のポツダム宣言受諾を世界に発信した「多摩送信所」跡

1945(昭和20)年当時の多摩送信所遠景。1945(昭和20)年当時の多摩送信所遠景。

多摩送信所の円筒型送信塔。木造の組み立て塔によって空中線を支えている。送信設備や宿舎を中心とする5棟からなる局舎が点在し、その北・東・南の尾根の山林中に6基の発信用アンテナを張り巡らせていた。多摩送信所の円筒型送信塔。木造の組み立て塔によって空中線を支えている。送信設備や宿舎を中心とする5棟からなる局舎が点在し、その北・東・南の尾根の山林中に6基の発信用アンテナを張り巡らせていた。

本学多摩キャンパス、エッグドームから法政トンネルを抜け、スポーツ健康学部棟に続く上り坂の手前左側に「多摩送信所跡」の記念碑が建てられています。
第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設設置場所を選定し、国際電気通信株式会社(現KDDI)に敷設を要請しました。1カ所は御殿場線山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として足柄送信所が設けられました。もう1カ所選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、冒頭の記念碑の裏側、三方を尾根に囲まれた一帯でした。翌45年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽(いんぺい)送信所として多摩送信所が開設されました。

多摩送信所では、約24ヘクタールの樹林の間に高さ60メートルの木支柱を立てて円筒型空中線を支えたアンテナから海外放送などを送信しました。しかし設備は他の送信所の機器を移設したもので新鋭機ではなく、発信方向によって手動で回転式アンテナを操作するというものでした。同盟国ドイツとの専用通信アンテナも配置されましたが、45年5月にドイツが連合国に降伏したため使われませんでした。敷地には技術者、職員合わせて50人が勤務する局舎が点在し、建物にはすべて迷彩色が施されていたといいます。

「多摩送信所跡」記念碑の全景。この裏手一帯の山林に、カムフラージュされた多摩送信所が置かれていた。「多摩送信所跡」記念碑の全景。この裏手一帯の山林に、カムフラージュされた多摩送信所が置かれていた。

当時、日本の対外通信は、政府関係以外には同盟通信社のモールス電、日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」と「東亜中継放送」がありました。多摩送信所を含めたこれらの対外放送は、長崎へ原爆が投下された翌日の45年8月10日から15日の間、日本政府のポツダム宣言受諾を、政府の外交ルートとは別に、全世界に向けて発信するという歴史的な役割を果たしたのです。

多摩送信所の由来を記したプレート。多摩送信所の由来を記したプレート。

8月15日の終戦と同時に海外放送は終了し、翌46年秋に多摩送信所は閉鎖されました。本学は、1964年から数度にわたり旧送信所敷地を含む山林を購入、多摩キャンパスの開設に伴い、70年代から80年代にかけて一帯の発掘調査を行いました。多摩送信所の遺構も確認され、88年3月、「ここにその事歴を誌し、永く後生に伝える」(碑文より)ため記念碑が建てられました。石碑の脇には支柱の台座に使われた石が残され、当時の面影を伝えています。

石碑脇に残された「アンテナ木柱台石」。支柱には防腐処理を施された木の素材が使われたという。石碑脇に残された「アンテナ木柱台石」。支柱には防腐処理を施された木の素材が使われたという。

出典:「HOSEI MUSEUM Vol.22」
2011年10月13日