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法政陸上の開拓者たち~法政初のオリンピアン・大木正幹~

お正月の風物詩として知られる箱根駅伝(正式名称は東京箱根間往復大学駅伝競走)。本学が初出場したのは、ほぼ100年前のことです。

陸上競技部員の長倉恒夫は、1920(大正9)年の第1回大会で自分たちと同じ学生が走る光景を見て、チームプレーや団結力の大切さを痛感し、部の発展を考えて皆と話し合い、翌年の参加を申し込んだといいます。

イメージオリンピック・ロサンゼルス大会に出場した頃の大木正幹(1932年)

箱根駅伝100年の歴史における本学の最高順位は、1931(昭和6)年の第12回大会と、1943(昭和18)年の第22回大会の総合3位です。とりわけ1931年は優勝を狙えると前評判も高く、4区の難波博夫と5区の松本四郎が区間1位の力走で往路優勝を成し遂げました。続く6区でも区間賞をとるなど順調にみえたところが、復路9区の大木正幹(せいかん)が、おなかを壊していて空腹で挑んだため、終盤に失速してしまったのです。

大木は四度、箱根駅伝に出場していますが、専門は短距離で、法政関係者では初めてオリンピックに出場した選手の一人です。在学中に1932年のロサンゼルス大会に出場し、400mは2次予選で敗れましたが、第3走者を務めた1600mリレーでは5位入賞を果たしました。当時の本学には400mで活躍する選手が多く、「400m王国」とも称されました。

イメージ2002年・2005年・2006年に使用され、「勝守」が縫い付けられた箱根駅伝の襷(個人蔵)。展示では実物を間近にみられる

イメージ1957年第33回箱根駅伝の様子。4区で区間賞を手にした馬場昭芳(1957年体育会卒業アルバムより)

大木は卒業後、母校陸上競技部の監督を務め、日本陸上競技連盟の運営にも尽力します。選手時代から自分の経験と信念に基づく練習を実践し、指導者になってからも、選手それぞれの体力や個性に適した走法を取り入れ、形式に当てはめた指導や練習の強制は誤りであると主張しました。

個性を尊重し、自由を求める法政陸上の部風は、戦後も引き継がれます。大木の後を継いだ丸山吉五郎は学徒出陣から復学し、徐々に学び舎や に戻ってきた部員たちと1947年の日本学生陸上競技対校選手権大会に出場。110mハードルと走り幅跳びで優勝するなど、法政陸上の復活の原動力となりました。

丸山は、体育教員として母校に勤務する傍ら、1964年東京オリンピックの強化コーチを務めました。また、陸上競技の指導書や解説書を多く執筆し、技術だけでなく学生とスポーツの在り方についても探究を重ねました。

取材協力:HOSEIミュージアム事務室

(初出:広報誌『法政』2021年4月号)



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