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学生フェンシングの黎明
〜フェンシング部の創設者・渋谷忠三〜

明治時代に軍刀術として日本に伝えられたフェンシング。スポーツとして親しまれるようになったのは昭和に入ってからで、その普及に貢献したのが、本学フェンシング部の創設者・渋谷忠三です。

イメージ1936年経済学部卒業アルバムの渋谷忠三。後輩によれば「極めて温厚な稀に見る紳士」だった

1932(昭和7)年、岩倉具視のひ孫・具清が留学先のフランスから帰国。東京・赤坂にフェンシング・クラブを開き、本学や慶應義塾大学の学生にフェンシング技術を教えます。その学生のひとりが渋谷でした。

オリンピック1940年大会の東京誘致が決定したのを受け、渋谷は二瓶俊彦ら同窓生たちと共に母校のフェンシング部創設に奔走します。1935年、法学部の本間喜一、児玉正勝両教授の協力を得て、他大学に先駆けて法政大学フェンシング倶楽部が誕生。発会式にはフランス大使代理が出席し、岩倉と渋谷によるデモンストレーションも披露されました。

翌年には、渋谷らが慶應義塾大学などに呼び掛け、大日本アマチュア・フェンシング協会を設立し、当時、国内オリンピック委員会として機能していた大日本体育協会へ加盟を打診します。ところが、「我国ニ剣道ナルモノガ厳然トシテ存スル」などを理由に却下された上に、第1回大会から正式種目であるフェンシングが東京オリンピックの競技種目から除外される方向へと話が進みます。そこで渋谷らは、日本初の学生対抗試合(法政対慶應)を開催し、近隣の大学でも指導に当たるなどして、フェンシングの普及に尽力しました。

イメージ1973年の法政大学・関西大学定期戦記念ペナント(法友会フェンシングクラブの酒井裕幹事長所蔵)

国際オリンピック委員会(IOC)の働き掛けもあり、東京大会でのフェンシング開催が決定。出場選手を「全部法政色に」という決意で現役選手の指導に当たった渋谷の決意が実り、本学からは6人が代表候補に選出されます。

ところが、時の戦局に翻弄されて、日本政府が開催を返上し、1940年東京オリンピックは幻に終わりました。戦時中、外来スポーツの排撃によりフェンシング部は活動休止を余儀なくされ、戦死した渋谷が戦後の復活を目にすることはありませんでした。

イメージ法友会フェンシングクラブから寄贈された各種目の剣(上からサーブル、エペ、フルーレ)とマスク。

その後、本学フェンシング部は、幾多のオリンピアンを輩出しています。2016年リオデジャネイロ大会に出場し、2019年にはエペ種目で日本人初の年間世界ランキング1位に輝いた見延和靖選手もその一人で、さらなる活躍が期待されます。

取材協力:法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2020年4月号)