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戦前戦後の本学を見つめ続けた第一校舎

イメージ第一校舎の看板。解体時に取り外され、校舎を物語る資料として保管されている

今から70年前の1952年3月、法政大学通信教育部の第1期生が卒業しました。敗戦直後の混乱の中で、働きながら勉学を続けた通教生たちの晴れ姿を見届けたのが第一校舎大講堂です。

実は、「第一校舎」は戦後の呼称で、もともとは「第三校舎」でした。1921(大正10)年、本学は現在の市ケ谷キャンパスに移転。新築された木造3階建ての旧第一校舎や第二校舎は空襲で焼失しましたが、第三校舎と第四校舎(通称「六角校舎」)は焼け残ったのです。

第三校舎は本学初の鉄筋コンクリート造りで、1927(昭和2)年2月に竣工。翌月にこの第三校舎の講堂で卒業式が執り行われました。『法政大学報』(1927年4月号)によると、この時の卒業生数は、法文学部108人、経済学部109人、予科488人、専門部133人。学部に進学した予科生の中には、法文学部哲学科で三木清に学び、後にキルケゴール研究の第一人者となる桝田啓三郎、在学中に全国の大学に先駆けて航空研究会を発足させ、全日本空輸(ANA)創業者としても知られる中野勝義もいました。

イメージ山下啓次郎(1868-1931年)。戦前の本学校舎を多く手掛けた

イメージ「法大」の文字が見える右が当時の第三校舎(後の第一校舎)、左が六角校舎(1931年撮影)

イメージ1980年代の第一校舎。右に58年館、その奥には80年館が写る

当初3階建ての図書館専用棟として計画された第三校舎は、専門学校から大学への昇格によって増加した学生を収容するため、教室と講堂を含む4階建てに変更して建設。新図書館には、それまでの約30から162へ席数を増やした閲覧室、約10万冊を収容する書庫が設置され、学習環境がおおいに充実しました。

第三校舎の設計者は、司法省の技師として裁判所や監獄の設計に携わっていた、当時の建築界の権威・山下啓次郎です。山下は第三校舎のほかにも、本学の校舎建築を担い、1935年には法政大学工業学校校長に就任しますが、翌年急逝。漢詩を愛好し、本学野球部が東京六大学野球で初優勝した夜には、学生たちの前で即席の詩文を披露したといいます。

第三校舎は戦後「第一校舎」と改称され、80年館が竣工するまで図書館として利用されました。
2007年に外濠校舎竣工に伴って解体される際には、山下の孫でジャズピアニストの山下洋輔氏の協力も得て、「第一校舎設計者 山下啓次郎回顧展」が開催されました。

戦前から80年にわたり本学を見つめ続けた第一校舎。現在の市ケ谷キャンパスになる前には、このような歴史がありました。

取材協力:HOSEIミュージアム事務室

(初出:広報誌『法政』2022年3月号)