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大学昇格そして市ケ谷キャンパス開設から100年~初代学長・松室致~

本学は1920(大正9)年の「大学昇格」から100年を迎えました。大学昇格とは、大学令に基づき「大学」として認可されたことを指します。それ以前も校名は「法政大学」ですが、あくまでも専門学校令に基づく学校でした。

初代学長として、この大学昇格に尽力したのが、松室致(まつむろ・いたす)です。1852(嘉永5)年、福岡県の小倉藩士の家に生まれた松室は、司法省法学校を卒業後、判事を務める傍ら、本学の前身である東京法学校の講師として刑法や民法を教えていました。公職で長崎に赴任中も、発足したばかりの校友会の九州支部長を担うなど、本学との深い関係が途切れることはありませんでした。

イメージ松室致の肖像写真(1930年頃、新館学長室にて)

松室は1913年、司法大臣を辞任し、学長に就任します。司法省法学校で松室と同期だった梅謙次郎が、本学の総理(現在の総長に相当)として清国留学生法政速成科の設置など、諸事業を推進していましたが、志半ばで急逝。学校運営責任者の空白が続く中、松室が梅の後を継いだのです。

大学昇格の翌1921年、本学は「豚小屋」と呼ばれていた手狭な九段上校舎から富士見校地(現在の市ケ谷キャンパス)に移転。甲州財閥の重鎮で校友の神戸挙一らの助力を得て、木造3階建ての第一校舎を竣工しました。

江戸時代に旗本屋敷が密集していたこの地には、明治に入って済生会の病院や軍医学校が相次いで建設され、隣接地が赤レンガ塀で囲まれた広場になっていたといわれます。

イメージ遺族から寄贈された松室致の大礼服一式(ジャケット、ベスト、ズボン、正帽)

第一校舎は外濠を前に堂々とそびえ立ち、正面玄関アーチ上部には松室学長の筆による「法政大学」の看板が掲げられました。本学は関東大震災の被害も少なく、モダンな校舎を次々に建設し、キャンパスを整備していきます。

周辺の富裕層の子どもたちが多く入学したことから、法政版の「モボ(モダンボーイ)」である「法政ボーイ」が神楽坂や飯田橋を拠点に華やかな学生文化を形成したのもこの時期です。

イメージ外濠から見た第一校舎(1927年経済学部卒業アルバムより) 左端に見える完成目前の第三校舎は、空襲による焼失を免れ、戦後「第一校舎」と改称し、2007年解体

1880(明治13)年に東京法学社として産声を上げた本学は、神田地区を転々としながら、上京した将来有望な若者たちに法学教育を施しました。大学昇格によって、それまでの法律学校から総合大学への脱皮を遂げ、以後、この市ケ谷の地は本学発展の拠点となったのです。

取材協力:HOSEIミュージアム事務室

(初出:広報誌『法政』2021年1・2月号



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