走りの科学
スポーツ健康学部スポーツ健康学科 苅部 俊二 教授
苅部 俊二教授
近年は運動会が5月末や6月初めに開催される学校が増えてきているようです。かつては、運動会シーズンといえば「10月体育の日」と、秋の運動会が主流でしたが、気温や天候、年間の行事計画などが関わって春開催の学校が年々増加しているそうです。今年の運動会はもう終わってしまったなんていう方も多いかもしれません。
さて、運動会といえば「走る」という運動が欠かせません。この走運動については多くの研究がなされています。
腿(もも)は高く上げる?
走るときに腿を高く上げることを指導された経験はありませんか。そのためのトレーニングで「もも上げ」という練習方法(スプリントドリル)がありました。「もも上げ100回!」などと言われてたくさんやらされた経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。この「もも上げ」の動作、今はあまり行われていません。
「もも上げ」は1970年代に日本に広まりました。「もも上げ」を日本に紹介したのは、ポーランド人のスプリントコーチで、多くの短距離選手を指導したゲラルド・マック氏です。1970年、マック氏が来日し、日本全国から指導者を集めて講習会を開催しました。この時マック氏は、「引き付けドリル」「もも上げドリル」「膝下振り出しドリル」「膝下振り戻しドリル」の四つのスプリントドリルを紹介しています。マック氏は分かりやすいようにと、これらのドリルの連続写真を使って紹介しました。この写真は雑誌に掲載され、マック式スプリントドリルとして大流行します。しかし、写真の形をそのまま模倣してしまったため、方法が不明確なまま腿を上げた形だけ広まってしまいました。マック氏が伝えたかったのは、腿を上げることではなく、脚を素早く引き上げ振り下ろす過程の中でこのような形になるということであり、腿を「上げる」ということが大切なのではなかったのです。
マック氏の「もも上げドリル」は、「もっとももを上げて!」「これがマック式だ!」などというマック氏の本来の指導とは違う形で日本中に広まってしまいました。その後、このことを知ったマック氏は日本中で誤解を解く講習会を開催します。しかし、時すでに遅く、誤った方法で行われた「もも上げドリル」では当然速くなることはなく、マック式スプリントドリルは効果が出ないとして衰退してしまいました。マック氏にとって実に残念なことだったでしょう。
1980年代に入り、カール・ルイス選手ら一流選手を輩出したアメリカ人コーチのトム・テレツ氏が、腿を高く上げるのではなく、「重心の真下に踏み込む」という動作を意識することを提唱しました。その後、バイオメカニクス研究により、腿を上げる高さと疾走速度には関連性がないことが実証され、疾走時は腿をあまり上げず、踏み込む動作が意識されるようになっていきました。
ただ、腿が上がるという動作は決して悪いことではありません。脚を地面に振り下ろし、大きな力を地面に伝えるとその力は体に戻ってきます。その反動で、腿はある程度の高さまで上がってきます。腿が上がるというのは結果であって、上げにいくものではないのです。マック氏が伝えたかったことは、こういうことだったのでしょう。
地面を蹴って走る?
図1 接地中の膝関節角度
(100m中間疾走局面における疾走動作と速度との関係:伊藤ら,1998)
「地面を蹴って!」も指導の場ではよく使用される言葉です。高い疾走速度を獲得するには、地面に強い力を加えなければなりません。この時、速度の高い選手ほど足が地面から離れる時(離地時)に、膝関節と足(そく)関節(足首)が大きく伸展しないことが分かっています。図1は、足が地面に着いている接地時の膝関節角度を示したものです。上の図は足が地面に着く瞬間、中央の図は接地中期で、下の図は足が地面から離れる瞬間を示しています。グラフの縦軸は関節角度、横軸は疾走速度です。疾走速度は右にいくほど速いということです。疾走時、足が地面に着くと膝は曲がります。図から160度前後ということが分かります。速い人も遅い人もその辺りです。続いて接地中期では、遅い人の方が膝の角度が小さくなっています。つまり、膝を大きく曲げていることを示しています。速い人はそれほど曲がっていません。さらに足が離れるときは遅い人の方が膝関節の角度が大きくなっています。これは、膝を伸展していることを示しています。速い人は接地中期とあまり角度は変わっていません。
簡単にいうと、遅い人は疾走時、足が地面に着地するときに膝を曲げ伸ばしして地面を蹴っているような動作をしているのです。速い人は、曲がったままの状態で足が地面から離れていきます。足関節でも同じような現象が起きます。足の速い人は膝や足首を曲げて伸ばし、蹴るような動作をしていないのです。つまり、地面は蹴らないのです。
「もっと地面を蹴って!」という指導言葉は、言いたいことは分かりますが正しくはありません。今は「地面を踏んでいく」とか「地面に乗せていく」などという表現をします。
手はグー? パー?
また、走るときの手はどう教わりましたか? グーですか? もしくはパー?私は「卵を握るくらいの感じで」と教わりました。一流選手を見るとグーもいるしパーもいます。一致した見解はあり ません。あまり強く握りすぎるのは力みの原因になるので、あまりやりません。自然に、が正解でしょうか。
テレビの解説でよくある「ゴール前伸びてきましたねー!」も間違いです。100メートル走でレース後半速度が上がる選手はいません。100メートルを9秒台で走る選手でもゴール前は減速しています。他の選手の減速の方が大きいので「伸びた」ように見えるのです。
私たちが教わってきたことや常識は、科学的な分析が進んだことで「実は間違っていた」ということがよくあります。「研究は後付けだ」などともいわれますが、多く研究者の分析によって今までの考え方が覆ったことも数多くあります。
2017年9月、男子100メートルで日本人初となる9秒台が達成されました。黄色人種では中国人に次いで2人目です。現在、日本には9秒台を達成しそうな2番手、3番手の選手もおり、男子短距離は群雄割拠の時代に入っています。これには研究者の研究の成果も一役買っているのです。
(初出:広報誌『法政』2018年度8・9月号)
- スポーツ健康学部スポーツ健康学科 苅部 俊二
Shunji Karube
1969年神奈川県生まれ。1992年法政大学経済学部経済学科卒業。富士通勤務を経て、1999年筑波大学大学院体育研究科修士課程修了。1996年アトランタ五輪日本代表(4×400メートルリレー5位入賞[現日本記録])、2000年シドニー五輪日本代表。1999年法政大学経済学部非常勤講師。第一教養部、文学部を経て2009年スポーツ健康学部准教授に着任、2014年より現職。2015年早稲田大学大学院体育科学研究科博士後期課程修了、博士(スポーツ科学)。法政大学陸上競技部監督、特定非営利活動法人法政クラブ事務局長を兼務。
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