匠(たくみ)と媒体―古典の継承
国際文化学部国際文化学科 深谷 公宣 准教授
深谷 公宣准教授
匠の不在
日本のものづくりでは職人の減少により、技の継承が危機的な課題となっています。私の研究分野である文学や映画にも、同じ兆候が見えます。作家が「職人」だとすると、数自体は減っていないかもしれません。しかし熟練した技を持つ「匠」はどうでしょう。夏目漱石、芥川龍之介、黒澤明、小津安二郎、溝口健二......今、このような匠をどれだけ見つけることができるでしょうか。
文学や映画が刺激する人々の想像力は、社会を導く原動力です。匠の不在は想像力を枯渇させ、社会の停滞をもたらします。特に現代は、この傾向が顕著です。
古典の継承
匠の不在を案ずる前に大学がすべきことは何でしょうか。最も単純な実践として、古典の継承があります。
古典(classic)とは単に古い作品のことではなく、良きものとして分類され(classified)、評価の定まったものをいいます。西洋文学の領域でも、古典の意義が説かれてきました。近代という時代に特徴的な懐疑主義に疑問を感じた詩人T・S・エリオットは、ある時期から古典主義を掲げました。イタリアの小説家イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』で古典文学作品の面白さを伝えようとしました。カナダの英文学者ノースロップ・フライが『批評の解剖』で文学ジャンルの傾向を分析したのも、古典の継承手段です。ユダヤ系の英文学者ハロルド・ブルームは『The Western Canon〈西洋の正典〉』で西洋文学の匠について論じ、同じくユダヤ系の批評家ジョージ・スタイナーはハーバード大学の招待講演(ノートン講義)で師弟の様態を分析してみせました。
「古典の継承」というと、「保守的」「役に立たない」「かび臭い」という反応が返ってきます。ある面ではそのとおりです。けれども、イデオロギーや社会通念にとらわれすぎるのも考えものです。古代ギリシアの彫刻がなければミケランジェロのダビデ像はなく、シェイクスピアなしにゲーテの活躍はなかった。古典こそが新しい文化を創り出すのです。
私も近年は、古典の継承をモチーフとした研究・教育を進めています。専門はアイルランド出身の作家、サミュエル・ベケットですが、20世紀半ばに前衛的と目されたベケットも、ダンテやジェイムズ・ジョイスなど、先人から影響を受けているため、その影響が彼の美学にどう関わっているかを検証しています。授業でも、できるだけ古典に触れるようにしています。大学が、古典に取り組む場としての役割をまだ失っていないと思うからです。
修業時代
私自身、古典に浸ることができたのは学生時代でした。映画に関しては、学部1年生の春に岩波ホールで観た『希望の樹』(テンギズ・アブラゼ監督)に啓発され、大学図書館のAVルームで手に取った『芙蓉鎮』(謝晋監督)、『インドへの道』(デビッド・リーン監督)が、映画と社会とのつながりを教えてくれました。現在開いているゼミ「映画からみる社会」は、映画作品の鑑賞と批評を通して社会を見る目とメディア・リテラシーを養うもので、根底には学生時代の経験があります。
先に触れた作家や学者をはじめとする文学への関心は、指導を仰いだ先生方を経由しています。カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』が目に留まったのは、訳者が須賀敦子先生だったからです。学部時代、授業に出たり、研究室にお邪魔して文学談義に付き合っていただいたりしました。
大学院の指導教員であった高柳俊一先生は、T・S・エリオット研究の最前線におられました。カトリックの神父としてキリスト教神学の豊富な知識を有する一方、現代の批評理論にも通じ、当時流行の残り火をともしていたポストモダニズムやポスト構造主義に目配りしながら、それとは一定の距離をとるブルームの『西洋の正典』、フライの『神話とメタファー』、スタイナーの『真の存在』をテキストに、講義をされていました。予習や講義のたびにメモを書き込んだこの3冊は、今も手元にあります(『神話とメタファー』は先生により翻訳され、講義の数年後、法政大学出版局から刊行)。
シェイクスピア研究者であり、翻訳家、かつ演劇集団「円」の演出家でもあった安西徹雄先生は、博士後期課程の教育プログラムで学生に文学理論書を読ませる課題を課していました。私が指定された課題図書は、エーリヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』、E・R・クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』、A・W・シュレーゲル『Über dramatische Kunstund Literatur〈劇芸術・劇文学講義〉』、レイモンド・ウィリアムズ『Drama from Ibsen to Brecht〈イプセンからブレヒトまでの演劇〉』、スタイナー『悲劇の死』でした。安西先生の指導を受けた1年間、塾講師のアルバイトに向かう前に喫茶店で、課題の5冊を原書や英訳でせっせと読み、重要箇所をノートに記録していきました。そのノートは今も研究や授業の養分として、随時参照しています。
3人の先生方は、こうせよ、ああせよと一切言わず、重要な古典の存在を示してくださっただけでしたが、私にはそれで十分でした。研究の「匠」は、古典を継承する優れた「媒体」でもありました。
匠と媒体
注目すべきは、3人とも同時代の文化環境に深く関与していたことです。須賀先生はエッセイストとして日本の、そして吉本ばななの紹介者として(それだけではないのですが)イタリアの文学界にも一石を投じていました。また前述のとおり、高柳先生は最先端の批評理論を誰よりもよく理解され、安西先生は舞台の現場で演出を手掛けていました。古典から得た知を同時代に開く感性の鋭さも、研究の匠が優れた媒体であるゆえんです。
古典は時流の影響を受けずに屹立(きつりつ)し、かつ、同時代に呼び掛けます。カルヴィーノは述べています。「もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ」(須賀敦子訳『なぜ古典を読むのか』、河出書房新社、Kindle版)。
もしカルヴィーノが正しいとすれば、電子書籍や配信サービスなど新興の媒体で古典作品を鑑賞してみるのも、一興ではないでしょうか。現代社会の喧騒の中、斜め読みや流し見で目に留まった句や表現や映像が、社会の停滞を打破し、新しい地平を開くヒントになるかもしれません。
※〈 〉内は筆者による題名
(初出:広報誌『法政』2021年11・12月号)
- 国際文化学部国際文化学科 深谷 公宣
Fukaya Kiminori
1971年生まれ。上智大学比較文化学部(現・国際教養学部)卒業。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。富山大学専任講師、同准教授を経て、現職。専門は英語圏文学、フィルム・スタディーズ。論文に“The Early Beckett’s Approach to Reality through a Textual Struggle with Rimbaud”(Journal of Beckett Studies. Vol. 26. Issue 2. Edinburgh University Press,2017)、「ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』における幽霊の隠喩と文学的想像力」(東雅夫、下楠昌哉編『幻想と怪奇の英文学IV─変幻自在編』、2020年、春風社)など。
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