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思いやりの心はどのように育つのか
文学部心理学科 渡辺 弥生 教授

渡辺 弥生教授渡辺 弥生教授

「キティ・ジェノヴィーズ事件」をご存じでしょうか。これは、1964年に米国ニューヨーク市のクイーンズ区で発生し、人の心の深い闇が垣間見えた事件です。女性が仕事から帰宅する途中、自宅近くの路上で暴漢に襲われて殺害されたのですが、この事件が後々までも取り上げられた背景には、彼女が犯人に攻撃されるのを目撃した人が多くいたにもかかわらず、誰一人警察に通報しなかったという震撼とする事実がありました。

他方で、人は自分の命を犠牲にしてまで他人の命を助けることがあります。世界中に、こうして人の命を救った美談は多くあります。命とまではいかないまでも、私たちは互いに思いやり、誰かを援助したり、物を分け合ったり、困っている人を救助したりといった状況を日常生活で経験しています。これは向社会的行動(Prosocial Behavior)と呼ばれます。私は攻撃行動よりも、この思いやりの行動に関心を持ちました。そして、こうした心は生まれてからどのように発達していくのだろうと思い、発達心理学に強く関心を持ったのです。

ずるい、ずるくないという気持ち

子どもたちの日常生活を観察していると、しょっちゅう〝いざこざ〟があります。物の取り合い、遊びの順番でのトラブル、おやつが多い少ないなどの不平といった場面です。そこで多く発せられる子どもたちの声は「ずるい!」という言葉です。一体子どもたちにとってどういうことが「ずるい」と認知されるのでしょう。

こうした分配における正義のことを、分配的正義(Distributive Justice)といいます。この分配における公正観の発達が、私の博士論文のテーマとなりました。私たち大人は、クッキーが一つしかないとき、子どもが2人いれば半分こにしようとします。つまり「同じ数ずつ分けるのが良い(均等分配)」という考えが習慣付いています。しかし、子どもによっては「たくさん頑張った方がたくさんもらうべきだ(公平分配)」「おなかがすいている子がたくさん食べればよい(必要に応じた分配)」「あの子はいつも食べられないから、全部あげてよい(愛他的分配)」「自分だけ欲しい(利己的分配)」といったさまざまな主張があるわけです。こうした分配に関する正義は、大人との関わり方や教育に影響されますが、利己的分配から均等分配、公平分配、必要に応じた分配や愛他的分配へと発達していく道筋があることが分かりました。

思いやりをどう育てるか

前任大学での所属は教育学部で、小学校などに出掛ける機会が増えました。当時は校内暴力やいじめの問題が深刻な時期で、思いやりの研究を現場で役立てなければ、実践知ではないという思いを強くし、思いやりを育てる教育を研究するようになりました。そこでまず巡り合ったのは、思いやり育成プログラム(Voices of Love and Freedom)です。このプログラムの提唱者であるハーバード大学教育学研究科のセルマン教授のところへ客員研究員として派遣されることになり、米国の学校で実践を経験しました。米国から戻ってきた私は、幼稚園と小学校でこのプログラムを実践することになりました(写真1)。


写真1:思いやり育成プログラムの様子

人権教育にも関わることになり、米国からセルマン教授を招いてシンポジウムも開催しました。このプログラムでは、自身を理解する上で自分とは異なる他者の理解が必要であり、どれくらい相手の立場や視点に立てるかという役割取得能力(Role-Taking Ability)を育てることが、対人関係のトラブルや葛藤を解決すると考えられています。プログラムではパートナーインタビュー、ペアでのロールプレイ、相手を想定した手紙を書くなど、他人の視点を取るワークを中心に実践します。

学校危機予防教育

法政大学文学部に着任してからは、いじめ、不登校、非行など多くの問題に個別に介入していくことよりも、むしろ、こうした子どもたちにいつ降りかかるか分からない個々の危機を大きく学校危機と捉えて、その「予防」をしていきたいと考えるようになりました。カリフォルニア大学サンタバーバラ校では、危機予防プログラム(Power of Play) にスペシャリストとして参加しました(写真2)。


写真2:危機予防プログラムのメンバー(後列右から2人目が筆者)

いじめや仲間との嫌な体験は、休み時間に起きることが多いものです。このプログラムでは休み時間に大学生が運動場に配置され、独りぼっちの子どもには遊ぶスキルを、けんかをしている子どもたちには問題解決のスキルを教えるなど、ソーシャルスキルを学ぶ機会を与えます。このプログラムは、学校でいじめを減らし、向社会的行動を増加させました。日本でも、こうした取り組みを参考にして、ソーシャルスキルトレーニングを子ども、ときには大人を対象に実施しています。東京でホストとして開催した国際学校心理学会では、こうした取り組みをテーマに海外の教育関係者や研究者と交流しました。

子どもたちの心の発達にはまだまだ不思議なことがたくさんあります。子どもたちの持つポテンシャルに鍵をかけてしまうことなく、伸び伸びと成長できるよう支援していきたいと思っています。現在の研究課題は、子どもたちの感情(気持ち)の調整力を伸ばす支援です。頭では分かっていても望ましくない行動をしてしまうのは、悔しさ、怒り、悲しさ、惨めさなどのネガティブな感情に翻弄(ほんろう)されてしまうからです。こうした感情を調節できるスキルを発達に応じて学べるようなカリキュラム、指導案、教材などを、志を同じくする仲間や大学院生と協力して開発し、効果を検証している最中です。乞うご期待!

(初出:広報誌『法政』2022年3月号)


文学部心理学科 渡辺 弥生

Watanabe Yayoi
専門は発達心理学、発達臨床心理学。筑波大学大学院博士課程心理学研究科で学んだ後、筑波大学、静岡大学を経て現職。途中、ハーバード大学在外研究員、カリフォルニア大学サンタバーバラ校客員研究員。法政大学大学院ライフスキル教育研究所所長。教育学博士。主な著書に『感情の正体―発達心理学で気持ちをマネジメントする』(ちくま新書)、『子どもの「10歳の壁」とは何か?―乗り越えるための発達心理学』(光文社新書)、『親子のためのソーシャルスキル』(サイエンス社)、『まんがでわかる発達心理学』(講談社)など。