HOSEI ONLINE「自由を生き抜く実践知」を体現する卒業生・研究者などを紹介するサイト

法政大学×読売新聞オンライン HOSEI ONLINE
  • 法政大学公式X(旧Twitter)
  • 法政大学公式Facebook
  • 法政大学公式line

広告 企画・制作 読売新聞社ビジネス局

世界を駆けた教育者・嘉納治五郎
スポーツ健康学部 永木 耕介 教授

永木 耕介教授永木 耕介教授

幕末に生まれ、講道館柔道を世界に広めた教育者に嘉納治五郎(かのうじごろう)という人がいます。彼は1909年にアジア初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員となり、1936年に第12回大会(1940年)の東京招致に成功しました。残念ながらその開催を前に没し、大会そのものも大戦の影響により不開催となってしまいましたが、彼のまいた種が戦後の1964年東京大会開催へと実を結ぶこととなります。2020年には東京オリンピック・パラリンピック競技大会が開催されます。今ここで、柔道を世界に広め、かつ日本とオリンピックの関係を築いた嘉納治五郎の活躍の一端をのぞいてみましょう。

柔道の創造と海外普及

嘉納治五郎(1860~1938年)は、東京大学卒業後、長らく東京高等師範学校(現筑波大学)の校長を務めた教育者でした。大学在学に、江戸期のサムライが好んだ「柔術」を自ら修行し、1882年に「日本傳(でん)講道館柔道」を興しました。以後、「柔道」を広く国民に普及させることを目的に、合理的な形(かた)や競技ルールをつくり、精神面にも教育的な価値を与えます。嘉納は大日本武徳会(1895年設立、準国家機関といえる巨大な武術総合団体)の委員としても力を発揮し、「柔術」は次第に「柔道」に統合され、また、剣術や弓術も剣道や弓道のように「道」と名乗るようになって今日の「武道」が確立されていきます。

ロンドンの武道会にて(2008年9月)

さて、嘉納による柔道の海外普及はどのようにしてなされたのでしょうか。時期的には、嘉納のIOC委員就任後の大正期以降であり、ヨーロッパを中心に開催されたオリンピック大会への参加と並行しています。特筆すべきは、英国・ロンドンの「武道会(Budokwai)」です。

1920年、嘉納は当地で柔術を広めていた柔術家の小泉軍治と谷幸雄に接見し、彼らを懐柔してヨーロッパにおける柔道普及の拠点としました。明治時代半ば以降、数は少ないながら、日本を飛び出して柔術を欧米各地に広めていた柔術家があり、小泉や谷はその典型的な存在です。

特に小泉はその後、まるで嘉納の代理人のごとくヨーロッパ中に柔道を普及させていきます。小泉が嘉納の柔道に傾倒していった理由は、嘉納が唱えた柔道の「教育的な理念」と「合理性」にありました。後に小泉は、『My Study ofJudo』という自著の中で、「講道館が、金銭とは関係のない教育的な組織であり、教育的理念・原理をもって科学的、進歩的に取り組んでいる点に感銘をうけた」と書いています。

もちろん小泉は、嘉納がIOC委員であるということも知っていたでしょう。IOC委員としての地位・名声は、柔道の普及という点でもやはり効果的でした。例えば1933年7月、嘉納はドイツ・ベルリン訪問の際に政府高官から招待され、首相のアドルフ・ヒトラーと面会しています。それ以降、ドイツでは柔道がスポーツ省の中で確かな位置を占め、急速に発展していきます。嘉納は米国でも英国と同様の行動をとっています。例えばハワイでは、1913年に複数の柔術道場に立ち寄り、その一つを尚武館と名付けています。その後、4度に及ぶハワイ訪問を経て、柔術から柔道へ自然に移行させていきました。同じく米国本土でも西海岸を中心に柔道が盛んとなり、米国に渡った日本人移民のアイデンティティーの一つとなっていきました。

オリンピック大会の招致

1932年ハワイ訪問時のレイを着けた嘉納(尚武館蔵)

一方で、嘉納はオリンピックをどう捉えていたのでしょうか。ざっくりといえば、「体育による青少年教育の推進」「競技大会を介した友好的理念の形成」「優秀な選手の輩出による国民体育への好影響」という捉えによって、嘉納はいわゆるオリンピック・ムーブメントに加わりました。そして、日本が初参加した第5回ストックホルム大会(1912年)以降、幾度かの参加を経て、嘉納は1940年に開催予定であった第12回大会の「東京」招致に尽力します。それは、オリンピックが「体育の世界的普及」を目的にするからこそ、日本で開催する意味があるという信念によっていました。

1936年7月25日付の東京朝日新聞では、「近代オリンピック設立の意志は、古代オリンピックがギリシャに限っていたのに対し、世界のオリンピックにすることにある。欧州と米国のみのオリンピックではなく、東洋でも行わねばならないのが最も大きな理由」という趣旨を嘉納は述べています。また嘉納には、西洋のスポーツは素晴らしいけれども、柔道をはじめ東洋の運動文化にも良さがあり、それらが相互交流することで共に発展していくという思いがありました。後年、彼が唱えた「自他共栄」という理念です。

ホノルルの尚武館道場(道場主のL.K.Migita氏と、2010年8月)

ついでにいえば、彼はオリンピックに柔道を参加させるのではなく、オリンピックとは別に柔道の理想を追求する「世界連盟」の結成を計画していました。それは、1940年の東京大会と同様に大戦の影響によって「幻」に終わってしまいます。しかし嘉納の遺志は受け継がれ、戦後の1951年、ヨーロッパを中心に「国際柔道連盟」が結成され、今日では200を超える国・地域が加盟するものとなっています。

私は嘉納の行動を跡付けるこのような研究を通して、「真の国際人」とは何者か、その姿が少し見えたような気がしています。


スポーツ健康学部 永木 耕介

Kosuke Nagaki
1958年生まれ。筑波大学大学院人間総合科学研究科にて博士(体育科学)。専門はスポーツ教育学、武道文化論。兵庫教育大学大学院教授、兵庫教育大学附属中学校校長兼任(2012~2014年)を経て現職。著書:『嘉納柔道思想の継承と変容』(風間書房、2008年)、『気概と行動の教育者・嘉納治五郎』(第3章第2節を執筆、生誕150周年記念出版委員会編、筑波大学出版会、2011年)、『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか−オリンピック・体育・柔道の新たなビジョン−』(第6章・第9章を執筆、日本体育協会監修・菊幸一編著、ミネルヴァ書房、2014年。当研究メンバーとして2014年度「秩父宮スポーツ・医科学賞」を受賞)など。