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開発協力から考える実践知(フロネシス)
--「役に立つ」とは何か?--
国際文化学部国際文化学科 松本 悟 教授

松本 悟教授松本 悟教授

それ以外の仕方でもあり得る知

法政大学は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』に書かれている「フロネシス」を「実践知」と捉え、「自由を生き抜く実践知」を大学憲章に掲げています。今回は、私の研究分野である開発協力を切り口に、このフロネシスについて考えてみたいと思います。フロネシスを考えるには、同書で論じられているもう一つの知の在り方である「エピステーメ」に触れる必要があります。アリストテレスは「それ以外の仕方においてあることのできないもの」、つまり必然的で普遍的なものを認識する状態をエピステーメと呼んでいます。反証可能であることが科学とはいえ、普遍的な法則を探究するという意味では、エピステーメは科学的な知として発展してきたといえるでしょう。それ以外にあり得ないからこそ、エピステーメは論証を求めるわけです。これに対してアリストテレスは、「それ以外の仕方においてあることのできるもの」のうち行為の領域に属するものをフロネシスと呼びました。「実践知」という訳が充てられたのは「行為」に着目した知であることが理由だと推察します。エピステーメとは異なり、必然性や普遍性に疑問を持つフロネシスには、論証ではなく思慮が伴うとアリストテレスは主張しています。しかし、科学的な知とは異なり、知の在り方としてその後あまり議論が深められませんでした。フロネシスを、論証を求める科学とは異なる知の在り方として発展させていくには、「行為」(実践)という側面だけではなく、「それ以外の仕方の可能性」の意味を考える必要があると思います。なぜなら、「実践知」という和訳は「実務にすぐに役に立つ知識」という誤った印象を与えかねないからです。私がかつて草の根開発協力を行うNGO※の職員として経験した具体的な例を基に考えてみましょう。

定説だけでは解けない問題群

「開発協力で大切なのは現地のニーズに基づいて支援することである」---- 開発協力について授業で議論をすると、学生たちはたいていこう答えます。開発協力を扱った文献にもしばしば登場する定説です。では、これは「正解」なのでしょうか。東南アジアのラオスでこんな問題に遭遇しました。ある県の女性団体から地域の小規模研修センター建設の支援を求められました。母子保健や家庭菜園、そのための組織づくりなど生活改善に係るさまざまなトレーニングを行う場としてニーズがあると考え、当時私が所属していたNGOは建設に協力しました。しかし、それからあまり年月が過ぎていないある日、研修よりも保育園としてのニーズが高くなったので使途の変更をしたいと相談を受けました。現場のニーズを尊重する原則に従えば、保育園への変更に反対する理由はないように思えます。一方で、短期間での使途の変更を認めれば、事前のニーズ調査の妥当性への疑問が生じますし、支援を受ける側が安易に用途の変更を求めてくる可能性もあります。
もう一つ例を挙げましょう。開発協力の現場では、1990年代以降、内発性や持続可能性が規範として重視され、「参加型」で活動を進めることが求められるようになりました。その結果、活動 の主体である住民や地方行政官向けのワークショップや研修が盛んに開かれるようになったのです。こうした「参加型ワークショップ/研修」で頭を悩ませたのが「日当」でした。ワークショップや 研修に参加するにはその日の農作業や仕事を休まなければならないので、その分を日当としていわば弁済するという考えです。それ自体には説得力がある半面、現実には住民の生活実態と比較して高額な日当が支払われることが多く、日当目当てに参加する人たちが少なからず見受けられました。また、類似のトレーニングをさまざまなNGOや国際機関が実施する中で、キーパーソンとなる住民や行政官の「奪い合い」の様相もあり、日当の額はその影響を受けていました。日当で動員された住民や行政官が主体となった参加型開発とは何なのか、モヤモヤした気持ちを現場で持ち続けていました。

正解を示すことが役に立つことではない

断片的なエピソードにすぎませんが、どちらの事例にもどうやったらうまくいくかという正解はありませんし、そもそも絶対的な正解だと考えて活動を実施すること自体、新たな問題の創出につながりかねません。開発協力の現場で必要な「知」は、必然性や普遍性では理解しきれない「それ以外の仕方の可能性」を多分に踏まえたものでなければなりません。それに必要なのは、一つの事象を複数の視点から考えられる力です。それらの視点は多様な学問分野の理論に立脚していてもいいですし、他の全く異なる分野の事例でも構いません。こうした異なる知(体系的に整理された「知識」ではなく単に「知っていること=knowing」)を使って、一つの事象を、根拠を示しながら「ああでもない」「こうでもない」と考えることのできる状態がフロネシスなのだと私は考えています。しかし、実践の現場は、「それ以外の仕方」を思慮するだけでは十分ではなく、そこからある判断を下し、行為につなげなければなりません。「いろいろな見方がありますね」で終わるわけにはいかないのです。中村雄二郎は『臨床の知とは何か』(岩波新書)で、「実践とは、各人が身を以てする決断と選択をとおして、隠された現実の諸相を引き出すことなのである。そのことによって、理論が、現実からの挑戦を受けて鍛えられ、飛躍するのである」(70ページ)と書いています。「それ以外の仕方」を具えた実践可能な状態であるフロネシスは、エピステーメでは捉えきれない現実の姿をあぶり出すことにつながり、それが学問の世界を揺さぶることになるというわけです。私は、放送記者や開発協力の現場など実践の場に25年間身を置いた後、本学の教員になりました。実践と学問のつながりの重要性と必要性を肌で感じたからにほかなりません。本稿をここまで読まれて、それが「学問が実務に直接役に立つ」という意味ではないことはおわかりいただけたと思います。そうした一見即効性のある「専門知」は、時に開発の現場では新たな問題を引き起こすことすらあります。実践知とは、正解のない現実世界に多様な理論や視点を持ち込み、議論し、決断し、それを再び学問にフィードバックすることです。そのことは実務と学問の双方の場において「役に立つ」知であると考えます。何より、本稿を書く行為自体が、私にとって実践知のささやかな試みなのです

※NGO:Non Governmental Organization(非政府組織)

(初出:広報誌『法政』2019年8・9月号)


国際文化学部国際文化学科 松本 悟

Satoru Matsumoto
1963年生まれ。研究領域は、国際開発、NGO、影響評価、メコン地域。特に知識の権力性に関心がある。東京大学大学院博士課程修了(学術博士・国際協力学)。NHK記者、ラオスや日本でのNGO活動等を経て現職。タイ・チュラロンコーン大学アジア研究所客員研究員(2018年度)。単編著に『調査と権力』(東京大学出版会)、『被害住民が問う開発援助の責任』(築地書館)、『メコン河開発』(築地書館)。