春のあこがれ、春の妄想
文学部哲学科 奥田 和夫 教授
奥田 和夫教授
春
また春が来ました。春というと、なにか初々しさを感じるのは「芽生え」に見られる自然の営み、そして私たちの社会の「年度始め」という習慣のせいでしょうか。学生時代には新しい科目を履修する期待など、「すこし先の自分」を思い描いて、なにかうきうきした 気分になったことをいまも思い出します。そのような経験は多くの人々がもったことでしょうし、春がもつ雰囲気の一つです。
あこがれと理想
いま「すこし先の自分」と言いました。それなら、「もっと先の自分」も、さらに「もっと、もっと、先の自分」も、あるでしょう。少年も青年も若く未来の時間が多い、しかし不安定で、いわば「何者でもない」。こういう人になりたい、ああいう仕事に就きたい、という漠然とした夢や理想があって、それへのあこがれが、甘く、しかし、もどかしい。誰もがそんな経験をし、とにかく一応、大人になってゆく。
昔、ギリシアの哲学者がこのような〈あこがれ、あるいは恋、とその対象である理想〉という図式を用いて哲学を説明したことがあります。それは、究極の知の〈対象〉とそれを求める知=哲学(愛知)との関係です。この世では決して見ることもふれることもできない、ただ、知性だけでとらえられる〈美〉そのものと、この〈美〉そのものに魅せられ、これを知ろうとする激しい欲求=恋(エロース)が哲学(愛知)なのだというわけです。この恋が後に英語では「プラトニック・ラブ」と呼ばれます。
理想と現実
また、先にふれたギリシアの哲学者は〈知性だけでとらえられる対象〉言い換えれば〈知ることしかできない対象〉と、〈主に感覚によってとらえられる対象〉言い換えれば〈不正確に感じとられるだけで明確な把握ができない対象〉とを区別しています。前者はいわば〈完全な対象とそれによる完全な世界〉、後者はいわば〈不完全な対象とそれによる不完全な世界〉です。私たちは知性と感覚を有していますが、この二つの能力はそれぞれ先の二つの世界に対応しています。なので、私たちは私たちがもつ二つの能力で〈二重の世界〉に生きていることになる。その意味は、知性によって知られる対象とその世界をモデルとして思考しながら、しかし「人間の手ではほとんどどうにもならない、不安定で何が起きるか分からない」その意味で「不完全な対象とその世界」に対処していかねばならない、ということです。そしてその「対処」の拠り所が「知られるだけの対象」です。これは先の例では「理想」と呼ばれたものです。この「理想」がなければわれわれは何もできない。「理想」はたとえ実現しなくても、何かを一歩進めるためには不可欠である、そのように先の哲学者は言っています。何かを一歩進めるためには、「こうした方がよい」「こちらの方が正しい」という判断を導き出すための基準となるモデルまたは理念が必要だからです。また、反対にこの不完全な世界に完全な「理想」の実現はあり得ず、可能な限り「次善」(または「次々善」......)なものでよしとしなければならない、ということにもなります。哲学者とは、いままでにのべてきた二重の世界を混同せずに明確に区別できる者である、とも先の哲学者は語っています。
現実/自己との妥協、闘い
少年はいつしか大人になってゆく。その営みは先の話では〈二重の世界〉に生きる、ということです。それは簡単に言えば、文字どおりわれわれの日々そのものを指します。どうすればよいのか、と考えながら、しかし抵抗できない障害や困難を、時に乗り越え、時 に挫折する。いや、二重の世界に生きる、といっても、実際にはわれわれは「不完全な世界」にどっぷり浸かって生きている、といった方が正確です。われわれはわれわれの身体を養っていかなければならず、生存と生活とを確保しなければならないからです。そうし た状況の中で、「生活に流される大人」をその事情も条件も考慮することなく批判することは、無責任で、往々にして幼い。
半面、「生活に流される大人」のいくらかには、たしかに批判されてしかるべき点も存在します。だからその点を批判する者たちも、やはり出てくる。しかし、「自分のことを棚に上げて」批判するのではなく、先ほどふれた「完全な世界」に類する理念を見つめつつ、 自己の生き方を律しながら、しかも親切心と愛情のゆえに人々の批判すべき点を批判するという、珍しい人もいました。それはソクラテスという人です。
ソクラテス
ソクラテスは、時折誤解されることですが、金儲けや名誉心などを否定したわけではありません。ただ、それらよりも先に自己の魂、精神をよくすることに気遣うべきであり、そのためには愛知(哲学)に努めなければならないと考えました。それが神アポロンから与えられた自分の使命であり、神への奉仕であるとして。人々に対するソクラテスの活動 は誤解と中傷にまみれ、有力政治家の憎しみまで買うこととなり、結果として裁判にかけられ死刑判決に至ります。このソクラテスの刑死に関連して、ソクラテスが死刑判決を受け入れたのは、彼が「悪法も法なり」と考えた結果である、という解釈が連想されます。
この解釈は欧米の研究書や論文では見かけないので、おそらく「国産」の解釈です(しかし、学説ではない)。数年前に日本の大新聞の有名な1面コラムでもこの解釈を見かけました。しかし、疑問が生じます。詳細は省きますが、ソクラテスが法を尊んだのは事実で す。しかし、アテネの国法を悪法と考えた様子は、実は窺えません。むしろアテネとその国法を好んでいたというのが実際に近い。「悪法も法なり」ではなく、ソクラテスの考えは正確には「不当な判決ではあっても、脱獄はしない(法にもとづいた判決には従う)」というものだったと考えられる......。
と、そうこうするうちに、桜吹雪の中に市ケ谷キャンパスの新しい富士見ゲートが見えてきた。頭上の巨大な宇宙船に乗り込むかのようにゲートの真下に段を上る。よき教職員よき学友、つどい結べり。春の授業の、始まり。さて、では、今日の妄想もここまで。
- 文学部哲学科 奥田 和夫
Kazuo Okuda
1956年神奈川県横浜市生まれ。法政大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程単位取得退学。専門は古代ギリシア哲学、特にソクラテス、プラトンの研究。最近の論文:「哲人王の行方」(日本西洋古典学会編『西洋古典学研究』第59号岩波書店)、「「哲人王の行方」補説」(西洋古典研究会編『西洋古典研究会論集』第21号)など。趣味:美術館、博物館、資料館、古い町めぐり。
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