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上智大学の視点
~SDGs編~

「SDGs」は、2015年9月に国連総会で採択された「持続可能な開発目標」の略称。2030年を達成期限とする、各国が取り組むべき17の目標とその具体的な評価基準169項目が定められている。そこで、上智大学のSDGsにかかわる取り組みを、シリーズで紹介する。

鎌倉時代が現代と重なる? 歴史から学ぶサステナビリティの知恵 鎌倉時代が現代と重なる? 歴史から学ぶサステナビリティの知恵

鎌倉時代が現代と重なる? 歴史から学ぶサステナビリティの知恵

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なぜ「元寇」はドラマにならないのか

北条義時が大河ドラマの主人公となったおかげで、今年は鎌倉時代への関心がにわかに高まっているようです。

源平の争いを制した源頼朝が幕府を開き、それまでの天皇・貴族中心の政権とは別に武士中心の政権を打ち立てて始まったのが鎌倉時代でした。義時はその頼朝と行動を共にし、やがて事実上の幕府のトップである執権に就任、権力・権益の奪還を狙って兵を挙げた朝廷側を返り討ちにし、以来600年以上続く武家の優位を確定させました。

こうして鎌倉幕府も安定するのですが、義時の死から50年後、モンゴル帝国が日本侵攻を試みます。「元寇」とも呼ばれる蒙古襲来は、わが国が初めて「世界史」の大波にさらされた出来事であり、日本の社会・文化の大きな転換点となりました。

ところが不思議なことに、ドラスティックに展開するこの蒙古襲来という大事件は、小説にもドラマにもなったことがほとんどなく、されてもあまり成功していません。それは不思議でもなんでもない、実は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述が、元寇の開始を告げる蒙古の国書が来る直前で終わっており、それ以降の記録は断片的なものしかないからです。日本史上の空白期間と言ってもいいかもしれません。

しかし、いつ新たな発見があるかわからないのが歴史研究です。私が学芸員を務めていた金沢文庫で、運慶が鎌倉で造った大威徳明王像が見つかったのはほんの15年前のこと。仏像の中から出てきた小さな巻物に運慶作と明記され、慎重に鑑定する一方で他の史料とも突き合せた結果、『吾妻鏡』に記される三代将軍・源実朝の異変を裏付ける遺品であることが確認されたのです。

金沢文庫にはきちんと読み込まれていない鎌倉時代の書物がまだたくさん残っており、どこにどんな驚くべき記録が眠っているかわかりません。それを紐解くのは私たち歴史研究者の仕事ですが、その成果は、おそらく皆さんに新しいドラマを提供し楽しませるだけではありません。そこにはきっと、学ぶべき知恵も詰まっているはずなのです。

原子炉という巨大な「かまど」をつかさどる神様

SDGsのキーワード「サステナビリティ(持続可能性)」は、必ずしも科学技術によって達成されるものではありません。私たちの生活や社会を持続可能なものにする「知恵」の中には、歴史から学び取れるものもあると思うのです。

たとえば私は、東日本大震災の津波による原発事故に直面したとき、昔の人なら「これはかまどの神のたたりだ」と思っただろうと感じました。高エネルギーを発して多くの家庭に電気を送り出す原子炉は、いわば日本の全世帯をまかなう巨大なかまどのようなもの。これをつかさどる神が祭られていなかったのです(ちなみに電力会社は、落雷によって送電線に被害を与える雷神には参詣を欠かさなかったそうです)。

かまど、すなわち火をつかさどる神様は、普段は煮炊きを助け暖も与えてくれますが、機嫌を損ねれば火事という大変な災いをもたらします。それゆえかつてはどの家もかまどの神である「荒神さま」を丁寧に祭っていました。

災厄をなす神は、かまどだけではありません。日本人は古来、自然界のあらゆるもの・こと(現象)を神のしわざと考え、特に天変地異をもたらす荒神・地神・金神・疫神というようなたたり神を手厚く祭ってきました。世界で稀なほど様々な災害が頻発するこの列島に暮らす人々にとって、それは当然のことだったでしょう。

むろん大切なのは、昔に戻って神々を信じることでも、決められた儀式を行うことでもありません。人間の力が到底及ばない自然の力、すなわち昔の人たちが神としてあがめたものに対して、畏怖と感謝の気持ちをもって謙虚に向き合う感覚あるいは知恵を、現代の私たちは取り戻さなければなりません。東日本大震災の時、自然がNOをつきつけた干拓地の堤防が再び築かれ、原発の再稼働が進められている現実を見るにつけ、私はあらためてこう痛感するのです。

世界中で環境破壊はいまなお進み、気候変動によって気象災害は規模も頻度も増大しています。SDGsに取り組むうえで、日本の歴史が教える自然に対する感覚・姿勢を意識することが、とても大切であるように思います。

鎌倉幕府の滅亡から学べること

ところで、東日本大震災のとき、「千年に1度の大津波」という表現をよく耳にしたのではないでしょうか。これは、「末の松山波こさじとは」という百人一首の歌のもとになった、平安時代の貞観11年(869)の東北地方の大地震に伴い、大きな被害をもたらした津波以来の、という意味でした。

ところが、その後の地質調査によって、およそ500年前の15世紀にも同程度の津波がこの地方を襲ったことがわかりました。享徳3年(1454)の地震で津波による大きな被害があったとする記録があり、これにあたるのではないかと考えられています。つまり、東北の大津波は1000年に1度ではなく、500~600年に1度らしいのです。

そして貞観大津波の少し後、仁和3年(887)には、南海・東海トラフで連動した大地震による津波が広く太平洋沿岸を襲い、東西の交通を分断しました。これは、律令制による国土の一元的支配の崩壊を決定的にし、地方分権の中世型へと社会が変わり始めるきっかけとなりました。

一方、享徳の東北大津波からしばらくたった明応7年(1498)にも、やはり南海・東海トラフ連動の大地震に伴う大津波が、浜名湖を海につなげる地形変化などを起こし、太平洋沿岸に大きな被害を与え、それまでの社会システムが行き詰まり、戦国大名が群雄割拠する時代に変化するきっかけとなったのです。

3・11から10年以上経過したいま、東海地震、南海トラフ地震などが懸念されています。過去2回と同じく、近い将来、太平洋沿岸に大津波はくるのでしょうか、そしてそれは、どんな時代の変化を引き起こすのでしょうか?

最後に少し鎌倉幕府の話に戻ります。モンゴル帝国は3度目の日本侵攻を準備していましたが、反乱や皇帝の急死などが相次ぎ、実現しませんでした。

一方幕府は、3度目の来襲に備えて九州の防備を継続していました。そのための経済的負担は、すでに2度の戦役で窮乏していた御家人たちへの追い打ちとなりました。これに対し幕府は場当たり的な対策しかとれず、御家人たちの不満は増す一方となり、歴史上いちばん寒かったと言われる元弘3年(1333)、幕府は、外敵によってではなく、なだれを打って発生した内乱によって突然死することになります。その直前に鎌倉周辺に住んでいた人たちが書き残した断片的な史料を見ても、まさか数カ月後に鎌倉幕府が滅亡するとは誰も想像していなかったようです。突然発生する断層の破壊によって引き起こされる大地震のように、人間社会にも「非線型」の大規模な構造変化が起こりうることを歴史は示しています。

こんな鎌倉幕府の末路から、今の私たちが学ぶべき大切なことがあるような気がしませんか?

2022年8月1日 掲出

西岡 芳文 文学部 特任教授

1957年東京都千代田区生まれ。
1981年慶應義塾大学文学部史学科卒業。1987年同大学院文学研究科史学専攻後期博士課程中退。文学修士(慶應義塾大学)
神奈川県立金沢文庫学芸課長を経て、現在、上智大学文学部特任教授。
専門は日本(中世)史、博物館学、文化財学
文化庁文化審議会専門委員(文化財分科会)・横浜市文化財保護審議会委員

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