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日本文学を飛び出した「村上文学」に
ノーベル賞はふさわしいのか?

メヒティルド・ドゥッペル Mechthild Duppel 文学部 ドイツ文学科 教授

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ハルキ・ムラカミは今年もまた......

昨年のノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン氏が、約1億円の賞金授与の条件となる講演を、受賞後半年以内という期限切れ直前に実施し、スウェーデン王立アカデミーもその内容を高く評価しました。受賞決定直後から音信不通となり、授賞式も欠席するなど、彼の行動をファンならずともハラハラしながら見守ってきた世界の人々は、このニュースに胸をなでおろしたのではないでしょうか。

もちろん、そもそも世界を驚かせたのは、ノーベル文学賞が小説家や詩人ではなく、歌手であるディランに与えられた、というニュースでした。そして日本に限ると、毎年恒例ともいえる「村上春樹、今回も受賞逃す」というニュースが、メディアをにぎわせました。

実は、村上春樹氏の受賞は今後も難しいかもしれないと、私は考えています。これまでの受賞者を振り返ると、その多くが受賞時点で世界的には無名に近く、ノーベル賞が本人の認知度を高めると同時に、その作家が代表する母国の文学への関心を、あらためて喚起するという役割を果たしてきたとも考えられるからです。

その点、村上は世界的に知名度がすでに高いというだけではなく、たとえばドイツでは、村上ワールドをはじめ、村上ヒーロー、村上都市、村上スタイルなど、「村上」一つではなく、「村上文学」という新たな領域を作っていることを示しているといえるでしょう。

このような村上春樹に、いまさらノーベル賞を与える必要はない、そう評価されたとしたら、それを受賞以上の「名誉」と受け取ることもできそうです。

日本文学の特質とは何か

川端康成がノーベル賞を受賞した当時、彼の作品はまさに「日本的」と評されました。そこに描かれた風景や生活のエキゾチズムはもちろんですが、表現における精妙な美学、繊細な文体、そして構成の「あいまいさ」――ドイツではゲーテ時代以来の「Roman(文学ジャンルの一つ)」の伝統的な書き方に照らして、備えるべき論理性もクライマックスも、結末における解決もないと批判もされましたが、それらすべてを含めて日本文学の特質であると受け取られたのです。

村上春樹にも当然、紹介され始めた当初はそうした「日本的なるもの」が期待されたのですが、それは彼独特の物語、文体のいずれにも見出すことができなかった。そこに失望を感じた読者もいたものの、結果的には前述のように、日本文学を飛び出した村上文学が認知されることになったわけです。

さて、たしかに川端の作品には、彼が意識していたかどうかはともかく、日本の古典文学作品との共通点が見られ、伝統的な文学の方法論や理想が、彼の創作に潜在的に作用し続けていることが見てとれます。しかし、彼の同時代の日本人作家たちでさえ、一つの特徴で括ることはできませんし、川端自身も、実験的な小説を含む多様な作品を書いている。

そこであらためて日本文学の歴史を紐解いてみると、散文は物語・日記・随筆・江戸期以降の大衆文学、韻文は和歌・俳句、そして中国文学を言語・形式ごと取り込んだ漢詩文などなど、さらに明治以降、積極的に翻訳された西洋文学がここに加わることになり、世界でも稀なほど、多彩で豊かな文学的リソースが生み出され、受け継がれてきたことがわかります。

村上を含む日本の現代作家たちが、そこからそれぞれが好むところを汲み出して、意識的・無意識的に自分の創作に活かしているのだとすれば、彼等の作品を一見して日本文学の特徴を抽出できないのは、不思議ではないのかもしれません。

文学を日本とドイツの相互理解の入り口に

ドイツにおける「日本学」は19世紀、このはるか遠い国を文学・文献を通して知ろうという試みから始まりました。以来、実に1960年代あたりまでは、文学研究が中心だったのです。その後、驚異的な高度成長を成し遂げた日本の社会・経済に興味が広がり、さらにはブームが訪れたマンガやアニメ文化も研究対象となっていきました。

そうした中で日本文学への関心は低下、それどころかここ数年は、日本学全体が、経済的台頭の著しい中国研究に飲み込まれそうな状況です。

一方、私が教えるドイツ文学科の学生に、知っているドイツの作家の名を挙げさせると、いまだにゲーテ、ヘッセ、グリム、かろうじてミヒャエル・エンデがすべりこむ。現代ドイツ文学は、ここ半世紀ほど各国からの移民作家がドイツ語で作品を書くことで、独特な多様性を獲得しているのですが、そんな実像はまったく知られていません。

むろんこれは、ドイツをはじめ英語圏以外の現代文学が日本でほとんど翻訳されていないのですから仕方ありません。実はドイツでも英語圏偏重の状況は似たようなもので、文学に限らず、日独の相互理解を妨げていると感じています。

考えてみると、日本とドイツは、たとえば勤勉な職人によるものづくり文化、敗戦からの驚異的な復興の歴史など、共有しているものが少なくありません。にもかかわらず、いまの両国の社会のありようは不思議なほど違う。

たとえば、ヨーロッパでも最少という労働時間で高い生産性を実現しているドイツ、働き過ぎの解消に苦心している日本。半面、勤勉さやサービスの心をドイツ人は捨て去り、日本人は大切に守っている。それぞれの「働くこと」への考え方を学び合い、工夫しあえば、底力を持つ国民同士、アウフヘーベンされたより良い仕組みを生み出せないはずはないと、私は思うのです。

文学が、相互理解のために、取っ付きやすい入口になりうることは間違いありません。そして私たち研究・教育に携わる者の責任は重大だと感じています。

2017年7月3日 掲出

メヒティルド・ドゥッペル Mechthild Duppel 文学部 ドイツ文学科 教授

1958年生まれ。フランクフルト大学博士(1998年)。研究分野はドイツ文学、日本文学、比較文化。近著に Das "Fließen der Assoziationen" im Erzählwerk von Kawabata Yasunari (1899-1972) (Tectum Wissenschaftsverlag 2017年3月)。

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SOPHIA ONLINE「上智大学を知る」タイアップページ 2014年4月〜2017年3月掲載分 各界で活躍する上智大学卒業生
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