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読売新聞オンライン タイアップ特集
上智大学の視点
~SDGs編~

「SDGs」は、2015年9月に国連総会で採択された「持続可能な開発目標」の略称。2030年を達成期限とする、各国が取り組むべき17の目標とその具体的な評価基準169項目が定められている。そこで、上智大学のSDGsにかかわる取り組みを、シリーズで紹介する。

哲学の視点から見えてくる<br>SDGsとコロナ禍に共通する問題 哲学の視点から見えてくる<br>SDGsとコロナ禍に共通する問題

哲学の視点から見えてくる
SDGsとコロナ禍に共通する問題

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コロナ禍への「心ない」対策

SDGsを取り上げる前に、やはり新型コロナウイルスに触れないわけにいかない、そんな状況が続いています。これら2つのテーマは、一見どちらも哲学とは縁遠いようで、実は共通の重要な哲学的問題を含んでいると、私は考えています。

世界最高レベルの医療資源を誇っている日本での深刻な医療崩壊については、すでに様々な観点からその技術的要因が指摘されています。しかし、国民の多くはそれよりもまず、行政の対策・対応に「こころ」が欠けていると感じているのではないでしょうか。

この「こころ」という言葉のとらえ方は人それぞれ違うでしょうが、ひとまず出来事や事実の「意味や価値」を感じ取る働き、とまとめることができると思います。新型コロナウイルスでは新規感染者数・重症者数・死亡者数などの「数字」をもとに、緊急事態宣言の発出・解除などの対策が打ち出されていますが、その判断基準の意味がよくわからない。患者本人や家族にとってはかけがえのない命の重みを表す「数」が、その重い「意味」に目を向けられることなく、政治・経済その他諸事情との数字合わせに使われているのではないか、そこに人々の不信や不満が集中しているように思うのです。

実証可能な「事実」を扱うことに偏り、「意味」や「価値」の検討を軽視しがちな社会の傾向については、それを助長してきた哲学・思想界にも責任の一端があるかもしれません。昨今、哲学で「意味の場」の重視などの小さなブームが起きているのは、そうしたことへの反省と、今の世の中でそれがまさに求められているからでしょう。

私自身は、「意味・価値・変動」といった形のないもの、いわば「こころ」に近しいものに焦点をあてて自分の哲学を模索してきました。だからといって、特効薬の処方箋がすぐに書けるというわけでもないのが哲学のつらいところですが、掘り進む先にこの社会に必要とされるものが埋まっている可能性は高いと、意を強くしています。

さて、コロナ禍の医療崩壊については、もうひとつ哲学にかかわる問題が浮上しており、これがSDGsにもつながっているのです。

理想からこぼれ落ちるもの

ご存じの通り、日本は明治維新以来、西欧型の近代化を推し進め、とりわけ戦後は法律をはじめ様々な制度の整備が加速しました。西欧型の近代化の目指すところ・理想は、「自由で平等で独立した人々」がつくる社会です。したがって諸制度も、そうした人格をもつ人々が対象となることを前提につくられています。

一方「ケア」とは、「不自由・不平等を抱え独立できない個人」が存在する、あるいは人間にはすべてそうした部分があることを前提にして、そこで生じる「意味」の違いや差別に個別的に手を差しのべることです。そのため、近代化とケアには本質的に相いれない部分があるといっていい。近代的ケアは、不自由や不平等を一時的・部分的なものととらえて、それを補って自立させることを目指します(むろんそれは大切なことです)が、どうしても不十分なものになりがちなのは、人間への見方についてのこうした本質的差異のためです。

医療(キュア)はケアと同様に、命の重みに個別的に手を差しのべることです。コロナ禍の異常事態では、近代性とケアのギャップを埋める作業を医療従事者が一手に担う形になった。医療崩壊の原因のひとつを、この点に見ることもできるでしょう。だからといって理念・理想をおろしてしまえば、やはり社会は崩れてしまう。理念・理想とそこから抜け落ちるものの両方に、どうしたらバランスよく目を配れるか、それを考え続けるしかないのです。同様な問題が、SDGsについても指摘できます。

持続を達成するためには、その前提としてひとつの理念・理想を共有すること、少なくとも共有しようと努力することが不可欠であると、私は考えます。しかし、その理念・理想を振りかざして目標から手段まで上から決めていこうとすると、こぼれ落ちてしまうのは個人だけでなく、ある民族やある国になるかもしれません。

そのバランスをどうとるか。SDGsへの貢献が日常化しつつあるように見える日本だからこそ、国が、企業が、そして私たち国民が、強く意識していきたいところです。

持続可能性の前提は制御可能性

ところで、SDGsの主眼であるサステナビリティ、人類社会の持続可能性を確保するためには、コントローラビリティ(制御可能性)の組み込みが不可欠だと私は考えています。私たちが生み出し発達させてきた社会装置や科学技術を、私たち自身が適切に制御できる保障をもつ、ということです。

リーマンショックは、経済学者らの叡智を集めて構築されたはずのグローバル金融システムが、ひとつの不良債権の発生をきっかけに制御不能となってしまうことを示しました。昨年のアメリカ大統領選挙の顛末は、成熟したはずの民主主義さえ、ひとりの人間の突飛な行動によって制御不能となり、社会の持続性がなくなりかねないことの証左ともいえるでしょう。

最近の事例は、ひとたび事故が起きれば持続性がグローバルに失われることを示しています。ですから、事故が起きてからの保険金のような事後型のリスク・ヘッジでは意味がなく、制御可能で事故が起こらない保障を備えた社会装置をつくりだすことが必要です。

そして、さらに厳しい目を向けなければならないのは、想像を超える勢いで進化を続けている科学技術の制御可能性です。東日本大震災にともなう原発事故によって、日本は制御のない持続はないことを身をもって学んだはずでした。

しかし、最近のわが国の科学技術関連の政策提言では、AI(人工知能)、アバター(仮想空間での分身)、第一次産業の自動化といった先端技術を積極的に活用して持続的な展開を図るのはよいのですが、それらの制御可能性についての事前の配慮やフィードバック・システムという主張があまり見られない。この制御可能性の組み込みという視点は、SDGsのゴール・ターゲットの全体を見渡しても、特に社会的側面で軽視されているように思います。近代性や科学技術への絶対的信頼がその前提になっているからでしょうか。しかし今、コロナ禍にある人々の不信や不安の根底には、そうした社会的制御のない楽観主義はどうも危ういという気付きがあるのだろうと思われます。

むかし、カントが「永遠平和」を語ったのとおなじように、こうしたことに哲学者が声を上げても、しょせんは「蟷螂之斧」にすぎないかもしれません。また読者の皆さんには、結局自分で考えろというばかりで答をくれない哲学者の言葉など、聞く「意味」がないと感じられるかもしれません。それでもやはり私は「考えてください」と言い続けつつ、そのためのヒントをできるかぎりわかりやすくお伝えしていこうと思います。正解はわからなくても、誤った答には飛びつかない、そのためにも考えることがなにより大切なのですから。

2021年10月1日 掲出

大橋 容一郎 文学部 哲学科 教授

1952年東京都生まれ。1975年上智大学文学部哲学科卒業。1978年上智大学大学院哲学研究科修士課程修了、文学修士(上智大学1978年)。同学科助手、講師等を経て、現在、上智大学文学部教授。専門は近現代ヨーロッパ哲学、とりわけカント哲学およびその周辺(新カント学派、フィヒテ哲学等)。また20世紀以降の哲学思想史を、21世紀のケア論や身体知論、グローバル化論などを含めて研究している。さらに、辞典編纂、哲学年表編纂等の基礎分野を重視し、将来にわたる哲学思想の水脈の維持に取り組んでいる。

社会活動としては、専門領域の日本哲学会、日本カント協会、日本フィヒテ協会での役員、また放送大学客員教授を務める他に、複数の大学・社会人教育機関での講義や講演を続けている。

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SOPHIA ONLINE「上智大学を知る」タイアップページ 2014年4月〜2017年3月掲載分 各界で活躍する上智大学卒業生
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