わたしと夫は、まだあまり仲良くならないうちに結婚した。へんな言い方だがほんとうである。もちろん好きは好きだった。けれど、人間の本当のところは、暮らしの中でしか見えてこないものだから。恋人と会わない、特別でない日々の様子が見えてこないうちは、あまり仲がよいという感じがしなかったのである。一体どんな人なんだろうと、ブラックボックスに手を入れるような気持ちで、ソワソワぎくしゃくと一緒に暮らし始めた。
ところで、去年の梅雨ごろから、私には猛烈に行きたい中華料理店があった。しかし平日の12 時から15 時という会社員泣かせの営業時間に翻弄され、ついぞ行けないまま夏が過ぎ、その店は閉店した。どうやら期間限定らしかった。中華が大好物のわたしは悔しくて、家で何度もそのことを愚痴った。
「他のどこに行っても食べられない、特別な魯肉飯って、口コミに書いてあったの」
こどもみたいだと自分でも思うけれど、何度も魯肉飯、魯肉飯、と言い連ねた。
するとある日曜日、夫がスーパーの袋を掲げながら
「特別な魯肉飯、作ろうよ」
と言った。私のしつこい愚痴が言わせたのかも知れない。私も夫も料理は苦手で、食事はもっぱら外食か牛丼だった。そのくせ唐突な申し出と食材は、どことなくきらきらとした得意げ顔で私を見つめていた。
夫が包丁を握る手は危なっかしくて、かと言って私も弱火の加減がわからなかった。
「八角、ひとつでいいのに大袋で買っちゃった」
「かわいい形してる」
「卵は半熟派?」
「うん、とろとろにしようよ」
「醤油ちょっと入れすぎたかも」
「いいね、濃い味でいこう」
手探りで作る。ふたりで探って、相談しては手を止めて。知らないことを知って手を動かすうちに、徐々に家中が八角の香りに満ちていく。煮込みはきっかり二十分、奇しくも同時にお米が炊き上がり、顔を見合わせて笑った。
ふたりで作った魯肉飯を、まだ湯気が立つうちにハフハフ言いながらふたりでほおばる。角煮の脂身の部分のじゅるん、とした香ばしさがくちいっぱいに広がる。固茹でになってしまった茹で卵もこれはこれでベスト、ほろっと箸から落ちる黄身をタレが染みたご飯に背負わせて食べる。
夢中になってかき込んで、ふと正面を向くと夫が唇を茶色くテカテカとさせながら
「これ本当、美味しいよ!一緒に作れてよかった」
と言う。
ああ、この人はこんなふうに美味しいご飯を食べるのだ。こんなふうに暮らしていくのだ。と、胸に確かさが広がっていく。
「また一緒に作ろうよ」
そう言えば、
「もちろん、月1とかで食べたいな」
と返ってくる。来月も再来月も、その先にもわたしたちの魯肉飯が輝いてみえる。ふたりで食事を挟んで、暮らしていくビジョンがみえる。この人と家族になったのだ、と舌から感じた夜だった。
あの日以来、私たちはよくふたりで料理をするようになった。その度に一歩ずつ仲良くなって、一年が過ぎた。手際もずいぶんよくなったとおもう。魯肉飯以外にも作って食べたいものが尽きなくて、月1 の口約束はあっけなく破られた。まだ大量の八角がねむる我が家のキッチンが、胸の底から特別で、愛おしいとおもう。