「あなたの 『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト

読売新聞社と中央公論新社は、キッコーマンの協賛を得て、「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテストを開催しています。笑顔や優しさ、活力などを与えてくれるあなたの「おいしい記憶」を、私たちに教えてください。
第3回
キッコーマン賞
「父のしぐれ煮」
坪井 理恵さん(兵庫県)
読売新聞社賞
「ビタミンカラー弁当」
常世 ゆかりさん(長野県)
入賞作品
「母二人の手料理」
平塚 ゆかりさん(東京都)
「焼き蛤を食べたがよ」
澤田 俊迪さん(東京都)
「アメリカの味」
岑村 隆さん(長野県)
「おそらく一番」
岸島 正明さん(神奈川県)
「ハルちゃんのタマゴ記念日」
高見 知恵さん(兵庫県)
「風邪にワイルドカレー」
阿部 磨里子さん(千葉県)
「おでん屋のオヤジ先生」
東山 貢之介さん(兵庫県)
「おいしいトマトの食し方」
込山 絵美子さん(千葉県)
「私の宝物」
石部 洋子さん(兵庫県)
「神様からのおにぎり」
滝澤 和弥さん(東京都)

※年齢は応募時

第3回
キッコーマン賞「父のしぐれ煮」坪井 理恵さん(兵庫県)

 甘辛く味付けされた肉の、こっくりとした脂が白いご飯に染み込んで、おかずが無くてもお弁当が待ち遠しかった。

 私の記憶に残る味は、父が作った牛肉のしぐれ煮だ。

 それは一人暮らしをしていた二度目の冬に、実家から送られてきた荷物の中に入っていた。一見すると、茶色い肉の間に白い脂が固っていて、ちょっと気持ち悪い。

 母に電話をすると、父が作ったという。

 父は昔から、たまにうどんをこねたり、パンを焼いたり、料理というより実験感覚で作る人だった。ただそれは、すいとんのように短かくボソボソのうどんだったり、石鹸のように堅いパンだったりと、家族には不評だったので、今回送ってくれたしぐれ煮も、しばらくは蓋も開けずに冷蔵庫に入れっぱなしで忘れていた。

 ある日寝坊した私はお弁当に困り、父が送ってくれたしぐれ煮をご飯の真ん中にガバッと入れ、ギュッと握っただけで会社に持って行った。昼休み、「今日はお弁当の楽しみ、ないなぁ」と、瓶の中で固まった白い脂を思い出しながら食べると…「おいしい!」

 熱いご飯で溶けた脂が程良くご飯に絡まって、たっぷり入れた刻み生姜が肉の臭みを消している。甘辛い味付けも、ご飯がすすむ味だ。決して裕福でない我が家のこと、高級牛肉であるはずはないのに、お肉もふっくら柔らかい。父の実験は、大成功だ。

 その時から私のお弁当は、父特製・牛肉のしぐれ煮おにぎりになった。アルミホイルに包んで、昼休み10分前になるとストーブの上に乗せておくという技も編み出した。

 父に「すごくおいしいよ。毎日持って行ってるよ。」と電話した。普段は不愛想な娘が喜ぶのを聞いて嬉しかったのか、その後、何度か作って送ってくれたが、父が作るのに飽きたのか、私が食べるのに飽きたのか、父娘の牛肉しぐれ煮ブームは一年程で自然消滅した。

 後に私は実家に戻ったが、父がしぐれ煮を作ってくれる事はなかったし、私がリクエストする事もなかった。

 父の晩年、私は一度、牛肉のしぐれ煮を作ってみた。あの、毎日食べた甘辛い味を思い出しながら作ったが、父が作ってくれたような優しい甘みも味わいもなく、肉も堅くておいしくなかった。「お父さんみたいに上手に作れんかったわ。」と言っても、痴呆の出た父は送ってくれたこと事体忘れていた。それでも「よぉ炊けてるわ」と、おいしそうに食べてくれた。

 あの頃は、あの牛肉のしぐれ煮は父が作って送ってくれ、いつでも食べられるものと思っていた。もう十年以上も前に亡くなってしまった父に、作り方を聞いておけば良かったと悔やんでいる。

 望んでも、もう食べる事はできないが、いつか父を思い出せる味で作れたらな、と思っている。

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