「11月3日、文化の日に長芋を掘る」は、私に物心がつくずっと前から、わが家の伝統行事だったらしい。
主力の父は、地下足袋に軍隊時代の巻き脚絆の足ごしらえ。祖母は、一本でも折ったら責め立てる鬼監督。兄と私は、父の指揮下の二等兵として、芋から遠い床掘り係だった。
黒い畑土は80センチほどで、その下は淡黄色の細かな砂だった。それが顔を出すと、「おっ!アメリカの土が出てきたな」と、父はいつも笑って言った。
「アメリカの土」まで達している長芋は、町内の品評会に出せば、必ずや金色の折り紙がつく立派なもの。鬼監督の目つきも、指図も険しくなる。父は、先を尖らせた長芋専用の棒で慎重にまわりの土を崩しながら、完璧に掘り出していった。
祖母はご満悦。私たち兄弟も、父の見事な手の業に尊敬の念を覚えた。
やがて祖母は逝き、父は東京へ単身赴任、私たち兄弟も遠地の学校へ進学し・・・と、一時良き伝統は途絶えたのだが、私のUターンで復活した。
しかし、温和な母が見守る中、今や同等兵たる退職後の父と、私2人で掘る年数は、思いのほか短かった。いつの間にか、父も和顔の監督にまわり、私1人が掘るようになった。
やがて私も身を固め、子も3人授かった。
嬉々として穴の中で土遊びをする幼い子どもたちを女房が監督して、主力の私が掘る様となった。
「おっ!アメリカの土が出てきたぞ。このまま掘り続ければ、アメリカだよ」と、今度は私が子どもたちに真顔で吹くと、小学2年生くらいまで、3人とも信じてくれた。
父がなぜ、黄色い砂を「アメリカの土」と呼んだのか。認知症が重くなってしまった今となっては聞くよしもないが、きっとハイカラだった父のこと。「米ぬか」よりも、「メリケン粉」(小麦粉)に、それか、西部劇でカウボーイや幌馬車が巻き上げる、荒野の土の色に見立てたのだろうと、一人合点している。
文化の日の夕食は、もちろん「とろろ」。
だし醤油に砂糖と酒を少々加え、私はすりこぎを、回しに回す。
これは、わが家の畑の、文化の香り高き、アメリカの味。今や、私より上背のある男児2人が主力の、家族仕事の味。
飯もすすめば、会話もはぜる。