子供の頃、どうしても食べたいものがあった。それは、目玉焼きである。あのぷくっとした、見るからにおいしそうな黄身をバクッと食べてみたい! それが、幼い私の夢だった。そんなこと簡単だよね、だって目玉焼きでしょ? ……そう思われるかもしれないが、私にとってそれは、遠い遠い夢であった。なぜなら、私は卵アレルギーだったからだ。
私のアレルギーは、それなりに重かった。小麦もダメ、豆類もダメ、肉や魚にも制限があった。食卓には、兄の食事を見せないための衝立が立っていた。そんな生活でも、当の本人はそれほど辛くなかった。物心つく頃から、それが当たり前だったからだ。
しかし、卵だけは別だった。買い物に行けば必ず目にする卵。絵本でも、アニメでも、よく見ていた卵。ころっと丸くて、割ったら出てくる白身と黄身はとても魅力的だった。どんな味がするんだろう、どんな食感なんだろう。気になって仕方がなかった。
私のアレルギーを心配してくれる人は多くいたが、中でも祖母は格別だった。離れて暮らす祖母は、事あるごとに電話をくれて様子を尋ね、私が食べられる白米をたくさん作って送ってくれた。皆と同じものが食べられない私が可哀想だと、よく声を詰まらせていた。
私のひどい食物アレルギーは、そう長引かなかった。小麦も豆類も徐々に食べられるようになり、小学校に入った頃にはついに全卵が食べられるようになった。祖母は、それを心から喜んでくれた。何度受話器越しに「よかったね」と言われたことだろう。
「明日の朝、いいところに連れて行ってあげる」と祖母に言われたのは、卵が食べられるようになって初めて祖母の家を訪ねたときだった。次の朝、胸を躍らせて向かった先は、つがいの烏骨鶏の小屋だった。雌の烏骨鶏の傍らに、ほのかに温かい卵があった。
どうやって食べようか、と問われ、私は迷わず「目玉焼き!」と答えた。黄色い朝日に包まれた台所、「割ってごらん」という祖母の優しい声、フライパンに卵が落ちるジュッという音……。あの朝のことは、今でも鮮明に思い出せる。そして、白いお皿にのった目玉焼きのおいしかったこと! 予想以上に勢いよく流れ出る黄身を、こぼさないように丁寧に食べた。祖母はそんな私を、目を細めて見ていた。
祖母が亡くなったのは、それから約一年後だった。残された烏骨鶏の小屋の前で、祖父から聞いた。烏骨鶏を飼い始めたのは、いつか私が卵を食べられるようになったときに、とびきり新鮮なものを食べさせてあげたいという祖母の思いからだったと。あの日の目玉焼きには、祖母の私に対する深い深い愛情がこもっていたことを、私はそのとき知った。
あの目玉焼きを思い出すと、おいしい、幸せな記憶とともに、祖母への感謝が溢れてくる。道に迷ったり、躓いたりしたときも、目玉焼きを食べると、確かに私を愛してくれた祖母の温かさを感じて前を向けた。だから、私にとって目玉焼きの味は、ありがとうの味なのだ。
今、私は子供と一緒に目玉焼きを食べる。目玉焼きを頬張ると浮かぶ祖母の笑顔に、いつも語りかける。「ありがとう、おばあちゃん。私は今日も幸せだよ」と。