昭和二十四年九月、私は二十一才であった。網元の父は鰯の不漁を打開するために、北海道の臼尻港へ「さくら丸」三艘と、七十人の乗組員を率いて大原港を出港した。
正月を迎え十二月二十五日帰港するとき、津軽海峡で猛吹雪に遭遇し、行方不明になってしまった。新聞、ラジオでも絶望が報じられ、町中大さわぎになってしまった。
保険にも入っていなく、七十人の命、父、十八才の弟、叔父も乗っていた。
乗組員の家族もわが家に集まり抱き合って泣いていた。留守を守っていた母は、私と祖母、中学生と小学生の弟三人と岬から飛び降りる一家心中の覚悟をした。
岬の八幡神社に母とお百度参りをした。
暗い参道に乗組員の家族、近所の方々が提灯を持って集まって下さり、「死んではだめだよ」と励まして下さった。
食事ものどを通らなかった。気丈な母は、乗組員の家族を励ましながら、一縷の望みを捨てなかった。
二十八日の夕方、岬の上で沖を見ていた人々が大きくどよめき歓声が上った。
「さくら丸三艘が見えたぞーっ。」 その声を聞いて母と私は岸壁で抱き合った。
死ぬほどの心配も知らずに、船からみやげの積み荷を下ろす若い衆の声は明るかった。
八戸の入江に避難していたので見つからなかったのである。
腰の抜けていた祖母も起き上がり、夕食の支度にとりかかった。鰯の身を大きな俎の上でたたき、特大の擂り鉢で母がすり、私が鉢を押さえる。二人の嬉し涙がポトポトすり身に落ちる。すり身に味噌を加え卵の白身を加える。
大鍋には祖母の、大根、里芋、白菜、人蔘、とうふを入れた汁が音を立てている。大匙ですくったすり身を入れて最後に醤油で味を調える。
家族で無事を祈った仏壇の前に大きな卓を二つ並べて食事が始まった。父の大好物のすり身汁、母の白菜漬け、イカの生干し、塩辛、いなだの刺身などが大皿に盛られる。家族の他に一升びん片手にかけつけてきて下さった方々も、次々に一緒に卓に並んで下さった。
母と私の嬉し涙のしみこんだ「すり身汁」。この時の笑顔につつまれて食べた涙のすり身汁のおいしかったこと、今でも忘れない。
この後も鰯の不漁はつづき網元は破産し、船も網も家も手放した。父は町会議員、観光協会長として一生を町のために働いた。
母は賃縫いをし、夏は民宿で働き父を支えた。母が八十五才で亡くなるとき、
「もう一日船が帰らなかったら、生きていなかったね。皆さんに助けられて幸せだった」
と私の手をにぎりしめた。
私も命をいただき九十の春を迎え、曽孫のお宮参りにしっかりと抱くことができました。