50歳を迎える年に、私は原因不明の難病にかかりました。全身の皮膚が真っ赤に腫れ、少しずつ筋力が衰え始め、最終的には寝たきりの状態になってしまいました。
私が入院した日は、娘の誕生日でした。毎年欠かさず一緒にお祝いしてきたのに、とんだ誕生日にしてしまったと、付き添ってくれている娘の心配そうな顔を見て申し訳ないやら情けないやら、とても心苦しかったことを覚えています。
治療が始まってからは、もっと辛くなりました。投薬によって全身の腫れがひいた途端、体重が一気に20キロも減り、私は文字通り骨と皮になってしまいました。自分の真っ赤な肌も、痩せこけた顔も体も、動けずにチューブに繋がれていることも、下の世話をされることも、何もかもが突然のことで心がついていけず、毎日塞ぎこんでいました。又、担当の医師から「どの程度まで回復できるかはわからない」と言われていたので、どこか投げやりな気持ちにもなっていました。
そんな私の所に、娘は毎日お見舞いに来ました。日替わりのおかずを持って。娘が医師に「自分ができることは何か」と聞いたところ、「筋力のつくものを食べさせるのが良い」と言われたのだそうで、肉や乳製品が食べられない私に何とかたんぱく質を摂らせようと、豆腐ハンバーグや魚の煮込みなどを作って持って来るのでした。
なかでも登場頻度が高かったのが、ゴーヤチャンプルーでした。ゴーヤの緑に、卵の黄色、そこにその時々で海老だったりツナだったり蒲鉾だったりが入っていて、見た目は彩りが良く美味しそうなのですが、初めて食べた時、私はその苦味に顔をしかめました。しかし娘が隣で「ゴーヤには美肌効果がある」とか「動物性たんぱく質と植物性たんぱく質は一緒に摂ると吸収が良いらしい」とか、情報番組で得た知識を披露しながら勧めてくるのです。最初は仕方なしに口に運んでいたのですが、鼻腔をくすぐる鰹節の香り、ふんわり卵と味の染みた崩し豆腐の甘さ、そこに加わるゴーヤの苦みが癖になり、いつの間にか私の好物になっていました。
あれから20年が経ち、医師も驚く程の回復ぶりを見せた私は、台所にも立てるようになりました。自分でゴーヤチャンプルーを作ることもあります。しかし同じように作っても、なぜか娘の味とは違うのです。「母の味」ならいざ知らず、「娘の味」なんて恥ずかしいと思ったこともありましたが、すっかり開き直った今では、夏になると娘に作ってもらっています。
闘病中は何度も自暴自棄になり、親としては情けないことですが、娘に弱音ばかりか暴言まで吐いたこともありました。娘はいつも、それを黙って聞いていました。そして最後に微笑みながら言うのです。「どこまで良くなるかわからないってことは、うんと良くなる可能性もあるってことよ」と。
ゴーヤを食べる度、私はあの頃のほろ苦い気持ちと娘の笑顔を思い出し、今こうして生きられていることに、心から感謝するのです。