僕のおいしい記憶は、今から五十四年前の東京一九六四に遡る。テレビ、ラジオからは「明日があるさ」が流れ、オリンピックを前に町の風景も僕達の生活も新しく生まれ変わろうとしていた。僕の住む足立区も田畑に団地が建ち並び、地下鉄日比谷線の開通で一気に人口が増えた。小学五年生となった僕は四月から団地脇に新設された分校に転校した。次から次へと転校生が入り、毎日がとても新鮮だった。関西弁から茨城・東北弁の子、ブレザー姿の都会派や穴あきダブダブ姿のお下がり派と様々な子がいたけど当時は普通の事だった。そんなお下がり姿のT君が転校してきたのは梅雨明けの夏休み前だった。寝癖の頭、想いを内に閉じ込めたような、はにかんだ浅黒い顔が印象的なT君は野球がうまく、僕達は昼休みも放課後も真っ黒になった夏休みも「明日があるさ~」と別れては翌日も三角や四角ベースに夢中だった。そんなT君から初めて家に誘われたのは、朝から晩まで大騒ぎした東京オリンピックが名残惜しそうに消えた聖火台の火と共にあっけなく終わってしまった十月下旬の土曜日だった。T君の家は、農家の入り口脇に建つ木造で三畳の台所と丸いちゃぶ台のある六畳間に父と兄の三人で住んでいた。マホービンからお茶を入れるとT君は「きのう、父さんから環七の仕事が終わり、来週引っ越すと言われたんだ」と下を向いた。せっかく仲良くなったのに親の都合で又転校するなんて、と怒りのこもった悲しみで僕は胸がいっぱいになった。ちょっと泣きそうにはにかんだT君が「食べない?」と布巾を取った皿にはパンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものと小さなジャムの山が二カ所にのっていた。話す言葉が見当たらないまま一本口に入れた途端、濃厚な甘さとパンの香りが口一杯に広がり、やり場のない怒りも淋しさもはじけ飛んだ。思わず「おいしい!」と言うと「父さんが作ったんだ」「今朝、父さんが『おやつを置いとくから、家に呼んで二人で食べな』って言ったんだ」と嬉しそうにT君が答えた。T君の楽しそうな毎日の出来事を聞いてきた父さんが一生懸命作ってくれたんだ、と思うと噛めば噛むほど甘い想い出が湧き出した。笑いこけながら楽しかった短い間のアレコレを夢中で話せば、いつしか涙でグチャグチャな顔になり、あっという間に皿が空になった。最後の一本を僕が取ると、皿の下から「急でごめんね、とし君ありがとう」と書いた小さなメモが出てきた。
一つしかない窓からの光が弱まり、裸電球の紐にT君が手を伸ばした時、「またね!」と言って僕は飛び出してしまった。
「明日がある~」と歌わなかったせいか、あれから五十四年間、T君にも、あれ程甘じょっぱいおいしい記憶にも、いまだ出会っていない。