30年前結婚した私は、北九州市を離れ横浜の小さなアパートに暮らしていた。夫とは数回会っただけで一生の伴侶として共に歩むことになったのだが、当時知り合いもなく土地勘もない私は、昼間でも薄暗い坂の途中の部屋で時間と自分をもて余していた。
その頃、故郷の母が送ってくれる宅急便ともう一つ、心の内を見透かされたように届く荷物を待っていた。中には丁寧に梱包されたタッパーとその時々の乾物。タッパーの中身は友人のお母さんの手作りの海老味噌で、容器一杯びっちりと入っていた。初めて食卓に載せた日、あまりの美味しさに夫が見せてくれた笑顔を、昨日のことの様に思い出せる。
甘めの味噌の中に、プリッとした小海老。そのどちらもがそれぞれの旨味を吸って、白いご飯と食べると目を閉じて「ん~~。」と口にしてしまう程の美味しさだった。海の香りが味噌に溶けているようで、すぐに食べてしまうのが勿体なく、二人で残りを愛しむように箸を伸ばしていた。
帰省の折に空のタッパーを手にお礼に行くと、近所の市場の魚屋さんが活きの良い海老が入った時には声をかけてくれることを、満面の笑みでおばちゃんは教えてくれた。体に気をつけるよう、しっかり食べるよう毎回、幼い子どもに諭すように必ず言い添えてもらっていた。
小さな部屋に長女が生まれ、次女、三女と家族が増えるごとに広い部屋の住処へと土地を移っても、変わらない美味しさの海老味噌は定期便のように届いた。
故郷の隣県まで戻ることができ、時は流れた。おばちゃんは空の上の方になり娘たちもそれぞれの場所に巣立って行った。夫婦二人で地元の日本酒を楽しんでいると、どちらからともなく横浜のアパートで初めて食べた海老味噌の話になる。まだ若く、人生には別れがあることなど、実感もなかったあの頃。「作り方を聞いておけばよかったね。」で毎回終わる私たちの元に、ある日、あの懐かしいタッパーが届いた。おばちゃんの娘である友人が、海老味噌の再現に挑戦してくれていた。口にした瞬間のあの味。どれだけ沢山の支えの中で生きてこられたのかをゆっくり噛み締めた。瞼の裏に、新鮮な小海老を探して市場を歩くおばちゃんの後ろ姿が浮かんで、ずっと変わらずいてくれる友人の今の姿と重なった。
「おばちゃん、私もY子さんも歳をとったけどちゃんと食べとおよ。そして、あの海老味噌もひとつも変わらんで美味しいよ。」
冷蔵庫を開けると青い蓋のタッパー。それを目にするだけでふっと頬が緩んでしまう。