かれこれ四十年前、私の高校時代のお弁当は、母が作ってくれた「オニギリ二個弁当」だった。一個の中に佃煮やら梅干しやら何でも入っていたので、必然的に大きいオニギリだ。しかもまん丸だから食べ難く、食べているとボロボロこぼれた。私が、
「お母ちゃん、違うお弁当にしてよ」
と言うと、翌日は違う具がこれでもかと入ったオニギリだった。毎日そんな調子だったが、母の作るオニギリは好きだった。
私はその頃バレーボール部に所属していた。入部した頃の部は、良くて県大会の準々決勝止まりの成績だ。そのため練習もさほど厳しくなく休みも多いので楽しかった。だが私たちの時代は不思議なことに、中学時代にエースやら主将やらやっていた選手が揃い、そこそこ強くなってしまった。監督は俄然やる気が出てきたようで、土日も練習を始めた。ほとんど毎日が練習になりお腹が空いてしょうがない私は、母の作った「オニギリ二個弁当」だけでは足りずに、他にパンを三個食べていた。私は食べないと力が出ない性分なのだ。
二年生の秋、私たちは新人戦の地区大会で思わず優勝した。次は県大会に駒を進めると言う段になり、私は試合を考えると食べられなくなってしまった。練習試合からその傾向は強くなり、試合前となると食べ物を受け付けられず全く力が出ない。私は身体が大きいくせに、至って小心者だ。試合中失敗したらどうしようとやる前からクヨクヨ悩み、大好きな母のオニギリ一個さえ食べられなくなっていた。
県大会の当日は、朝からあまり食べられず気分も重かった。母が何時お弁当の包みを渡してくれたかもわからないほど、集中力に欠けていた。
一回戦が始まり、私は力が入らずサーブさえ相手コートに届くか危ぶまれる程で、ベンチの仲間が祈る姿が目に入った。それでもチームメイトの踏ん張りで勝ち進んだ。
準決勝の開始は午後になり、その前に少し食事を摂ることになった。ご飯なんて食べられないと思ったが、食べなければ力が出ない。
母の包みを開けて驚いた。いつもは優にソフトボールくらいはあるオニギリ二個はなく、ピンポン玉くらいのオニギリが七個入っていた。しかも具が小さく刻まれ、一個ずつ違う味付けになっている。私は母が心配してくれていたと思うと、胸が熱くなった。オニギリは準決勝前に三個食べ、決勝前に三個食べ、優勝後に一個食べた。本当においしかった。
三年生になるとそれがゲン担ぎになり、大会には七個のオニギリを持参した。母は、
「面倒臭いんだよね」
と言いつつ嬉しそうに用意してくれた。
母は自分の作ったオニギリで、娘がインターハイや国体に行けたと自慢ばかりしていた。何だか恥ずかしかったが、あの「七個のオニギリ」が私に力を与えてくれたのは事実であり、今でも忘れられない記憶になっている。