私は昭和三十三年三月に中学校を卒業した。三年三組だった。三ばかりが並ぶのでクラス会の名前を「皆三会」と呼ぶようになった。
担任の先生は亡くなられたが、一年に一度は集まっている。クラスに五十四名いたのだが、七十四歳にもなると病気をしたり亡くなったりして、参加するのは十五名ぐらいになってしまった。ときどき、卒業以来会ったこともない級友もやって来る。
いつも隣に座っていた山田君が五十八年ぶりに来た。クラス一のやんちゃ者だった。級友の頭を訳も無く小突いたり、暴言をはいたりして怖がられていた。担任の先生は女性のため喧嘩を制止することができないので、山田君と仲のよい私を隣に座らせたのだろう。当時二人用の机だったので、いつも引っ付くように座っていた。
その山田君が大きな身体でよたよたと杖を突いて入ってきた。会場まで奥さんに自動車で送ってもらったという。身体はがっちりして顔色も良いのだが、パーキンソン病になったらしい。会場に入った途端、「中学生の時は大変迷惑をかけました。ごめんなさい」と頭を下げた。悪さをしすぎたので参加しにくかったが、病気をしたので会いたくなったという。皆は山田君の変わりように驚いた。
山田君は腕っ節が強かった。体操部でもないのに鉄棒で大回転をしたり、片手だけで懸垂をしたりした。私は休憩時間のたびに誘われて鉄棒をした。高鉄棒で蹴上がりや、足掛け上がりができるようになったのは山田君のお陰だ。
山田君には母親がいなかった。昼食に特別大きなアルミの弁当箱を持ってきていた。ご飯は自分で炊いていると言っていたが、おかずは何も入っていなかった。おかずは、登校の途中漬物屋で辛子漬けを買ってきていた。当時、板で作った船の形をしたトレーに十円で山盛り買えた。「うまいぞ、赤井も食わないか」といつも半分くれた。小さな茄子が沢山入っていて、食べるとツーンと鼻にぬけ辛さの中に甘味があった。辛子漬けでご飯はいくらでも食べられた。
私のおかずはいつも卵焼きだった。当時父は病みあがりのため、養生と収入を兼ねて、卵をよく産む白色レグホン(鶏)を二百羽ばかり飼っていた。私は卵集めを手伝っていた。
醤油だけ混ぜた卵焼きと、辛子漬けとは色はどちらもだが、味はまったく違う。交互に食べると実にうまい。毎日半分ずつ分けることに決めた。山田君が休むと、辛子漬けの刺激がなく、味の薄い卵焼きだけなのでおかずが足りなくなったものだ。
皆で乾杯した後、酒の肴に卵焼きが出てきた。隣に座った山田君は手も不自由そうなので、卵焼きを皿にとって渡した。「おおきに、今日は辛子漬けを持って来てへん」と笑った。酒は医者に止められているという。
「俺も同じやんけ」と言って、また山田君と二人でお茶で乾杯をした。