私の子どもの頃の夏休みは、暑さ対策に昼寝をさせられたものだ。昼寝から目覚めると枕が汗でぐっしょり濡れていた。クーラーどころか扇風機でさえ贅沢品のあの頃、涼しくするためにやることといえば、戸を開け放ち風通しをよくすることぐらいしかなかった。起き抜けのぼんやりした頭に
「カナカナ カナカナ」
と裏山から涼しげな音が響く。今日もようやく暑い一日をしのぎ、夕方を迎えることができたかとホッとする。夕方になると原付自転車のポコポコという音がして、父が会社から帰ってくる。自転車に小さなモーターを付けただけの、バイクの先祖みたいな乗り物だが、当時としては庶民の貴重な足となって活躍していた。父は会社から帰るとその足で家から五十メートル程離れた所にある井戸に行く。湧き水のあふれるひんやりと冷たい井戸水の中に、西瓜やトマトが浮かんでいる。父が早朝会社に行く前に、食べ頃のものを畑から採ってきたものだ。井戸から引き上げた西瓜を囲んで、私たち三人兄弟は今や遅しと待ち構える。まな板の上に置いた西瓜を父はすぐには切らない。おもむろに指で弾くと、ビンビンとたっぷり甘味を含んだ豊潤な音がする。父は満足気に頷いておもむろに包丁を手に取る。頑固一徹で怒る事はあってもやさしい言葉などかける事はなかったが、なぜか西瓜だけはいつも父が切った。三人の子どもが期待を込めて見つめる中、儀式のような西瓜切りを楽しんでいたのだろうか。
新鮮で水分をたっぷり含んだ西瓜は包丁を当てるかあてないうちに、ビリリッと音がして一瞬のうちに弾けるように割れた。瑞々しい真っ赤な果肉が誇らしげに現れる。
「今日のはうまいぞ」
さっと手が伸び、夫々が一番おいしいと狙っていた一切れを持って縁側に陣取る。がぶっとかぶりつくと爽快な冷たさが、甘さが口から体中に広がる。兄弟そろってものも言わずにかぶりつく。庭に種をプーッと吹き散らしながら、ほっぺたをべたべたにして夢中でむさぼった。もう一切れ、もう一切れと食べに食べぱんぱんになったお腹をかかえ、ため息が出ても三人兄弟の競争は続いた。
スーパーで売っているパック売りの西瓜を買う気にならないのは、ビリリッというおいしいサインを聞き逃すまいと、固唾をのんで西瓜を見つめたあの緊張感を奪われた寂しさであろうか。
父が丹精込めて育て、一番おいしい時に収穫し、湧き水で冷やし、家族そろってかぶりついたあの味が忘れられない。バスも通らない世間から忘れられたような山あいの暮らしに、アイスクリームもかき氷も縁がなかったが、西瓜があれば私は幸せだった。夏になると、子供達に西瓜を食べさせることでしか愛情を現すことができなかった、不器用な父を想う。