「あなたの 『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト

読売新聞社と中央公論新社は、キッコーマンの協賛を得て、「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテストを開催しています。笑顔や優しさ、活力などを与えてくれるあなたの「おいしい記憶」を、私たちに教えてください。
第1回
最優秀賞作品
「卵焼き」
原 和義さん(福岡県)
優秀賞作品
「じゃがいもの家系図」
小須田 智女さん(千葉県)
「お魚さんの入った黄色いご飯」
大友 淑依理さん(宮城県)
入賞作品
「“おふくろの味”の概念に関する一考察」
髙橋 克典さん(東京都)
「オッパイ・スープ」
丸山 米子さん(神奈川県)
「鱈の煮付け」
幸平 泰子さん(新潟県)
「からあげ」
天野 美和さん(静岡県)
「ちらし寿司宅配便」
山野 華鈴さん(神奈川県)
「思い出のお弁当」
吉田 彩子さん(京都府)
「一度きり焼」
廣野 忍さん(大阪府)
「魔法のおにぎり」
谷中 昌一さん(茨城県)
「爆弾おにぎり」
小西 逸代さん(長崎県)
「嫁と姑と天ぷら」
三枝 夏季さん(愛知県)

※年齢は応募時

第1回
最優秀賞作品「卵焼き」原 和義さん(福岡県)

 小学校(当時は国民学校)で最後の遠足は楽しみだった。卵焼きが食べられるからである。家では三・四十羽の鶏を飼っていたが、卵は売るためのもので、家で食べられるのは、正月か遠足か病気の時だった。

 当時は武器生産に必要な金属回収令が実施されていて、金属の弁当箱は供出されてどの家庭にもほとんどなかった。木製の弁当箱か竹の皮や葉蘭に包んだ弁当で、風呂敷の片隅からぐるぐる巻きにして藁紐で結び、それを背中にかけての遠足だった。

「卵焼きを入れとるけん」という母の言葉も背負って、私は喜び勇んで出かけた。秋晴れのいい天気だったような気がする。学校から目的の海辺までは数キロの道のりだが、わいわいがやがやと歩くのではなく、隊列を組んでの行進状態だった。

 昼近く、海岸の堤防に一列に腰を下ろすと、担任のS先生の「昼飯、初め」の号令で、みんな一斉に弁当を広げ始めた。私は「卵焼き」に唾を飲み込みながら、背中の弁当を下ろし、膝の上に置いた。藁紐を解こうとした途端、紐が切れ、葉蘭に包んだ弁当はころころと転がって海の中に落ちていった。涙が滲んだ。岩の上に黄色の卵焼きがへばりついていた。とっさに、私は堤防にぶら下がって、岩の上に降りようとした。

「危ない。止めれ」鋭い先生の声が飛んできた。その途端、大きな波がきて、卵焼きは跡形もなく海の中に消えた。

 先生から引っ張り上げられた私は、頭にげんこつを食らった。

「横に座れ。俺の弁当を半分食え」

 私がためらっていると、「遠慮せんでもええ。全部食うてもええんぞ」

 命令口調だった。木箱の弁当だったが、卵焼きは入っていなかった。三分の一ほど食べたところで、「もう、腹一杯になりました」といって、箸と一緒に先生に返えそうとした。

「のう、和ちゃんや、嘘を言うちゃあいけんぞ。お前の気持ちは嬉しいが、腹一杯は嘘や。もっと食え」

 結局、私が半分以上を食べることになった。

 それから十年ほどが経った。小倉市(現北九州市小倉北区)の繁華街で、「和ちゃん、和ちゃん」と私の小学校の頃の呼び名が追っかけてきた。振り向くとS先生がにっこりと微笑んでいた。かなり歳を召された様子だったが、昔の面影は残していた。

「おおきなったのう。飯でも食おうか」

 近くの市場の大衆食堂に入った。昔話がはずんでいたが、食卓に卵焼きが出された途端、私はぐっと胸がつまった。

 先生はそれを察していた。

「何も云うな。何も云うな。ええ時代になったのう。親孝行せえよ」

 先生と私は微笑みを交わしながら、卵焼きを口に入れた。

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