昭和三十年代、私の住む田舎町には未だスーパーなどと言うものはなく、小さな店が色々な商品を扱っているのが普通だった。小学校に入ったばかりの私は、お使いを頼まれると大人の仲間入りを許された様な、ちょっと誇らしい気持ちになって近くの店へ嬉々として通っていたものだ。
そんな年が明け、正月三ケ日も過ぎたある日のこと。父が私に用事を言いつけた。「客が来くっから、〝やなぎや〟でタコ買ってきてけろ」〝やなぎや〟は家から十分程の坂の上にある魚屋である。
父から預かった五百円札を握りしめ店に向かう。魚屋といっても田舎のこと。店の半分はやはり何でも屋状態になっている。「タコちょうだいな」とおばちゃんに告げると「どっちのタコだい?」と返された。はてどっちだろうと一瞬考えたが、父は確か客が来ると言った。まだお正月だし、きっとお客さんと凧揚げでもして遊ぶのだろうと幼い頭で判断した私は揚げる凧と答えた。当時の五百円はなかなかの価値があり、立派な凧が二つも買えた。
大きな凧を手に意気揚々と家に戻った私を待っていたのは父のカミナリ。「このバカタレがっ!」客人と蛸刺しで一杯やるつもりだったらしい。それからずっと私の失敗を責める様に二枚の凧は神棚の横に磔になっていた。
勝手な判断をした私も悪いが、ちゃんと言わなかった父も悪いと思う。ちょっと悔しかった私は、冬休みの宿題にこのタコ事件を作文に書いた。ところがこれが思わぬ方向に転がってしまった。私の作文を読んだ教育関係者達は、小さな女の子と父親のほのぼのエピソードと捉えたらしく、県のコンクールで何と特別賞を取ってしまった。その上ご丁寧にラジオで朗読までされてしまったのだ。
大変なことになった。これでは親戚中の笑いものだ。父にまた怒られる。今度はゲンコツ付きかもしれない。
父が会社から帰り夕餉の時間になった。食欲など涌くはずもなく、ただ項垂れる私の前に見慣れない食べ物が出された。「たこやき、作ってみだよ」母が言った。焦げたお醤油の香ばしい良い匂いがする。上目使いに見上げた目線が父と合った。「このタコ助が…」父は本当に怒ってはいない時、私をタコ助と叱る。…こないだから何だかタコばっかりだ…。でも良かった。ほっとしたら食欲と同時に涙も鼻もいっぺんに噴き出してしまい、母の「たこ焼き」はとても美味しくてそしてとてもしょっぱかった。
あの頃日本は今よりずっと広く、私達東北人にとってたこ焼きの本場、大阪なぞまるで異国の地。本物のたこ焼きを食べたこともない母が、見よう見まねで作ってくれた醤油味のたこ焼き。おちゃめな母の優しさだったのか〝しゃれ〟だったのか。どちらでもいい。気持ちがとても嬉しかった。
今でも焦げた醤油の匂いを嗅ぐと、若かった父や母の顔とあのだいだい色の夕暮れを思い出し、鼻の奥がツンとするのです。