「坂本龍馬は、桂浜の焼き蛤が好きやき、ちんまい頃に乙女姉さんに連れてきてもろうて食べたがよ。」
と、露天商のおじさんは、ついこの間、龍馬に焼き蛤を食べさせたような口調で言った。
四十数年前の小春日和のその日、妻と桂浜を見下ろす龍馬の銅像の方へ向かうと、何とも食欲をそそる香ばしい匂いが流れてきた。
その匂いに引き寄せられて、銅像前の広場まで行くと、おじさんがこんろの上の金網に五、六個の蛤を乗せて焼いており、時々、貝が勢いよく弾けて、貝汁が泡を立てていた。
匂いに寄せられた新婚のカップル達が、次々に注文すると、おじさんは焼き上がった蛤にガラスビンの醤油差しから一滴の醤油を垂らして
「げに、まっことこの蛤を食べてみいや、龍馬とおりょうさんみたいに仲ようなるき。」
と満面の笑顔を浮かべながら渡していた。
カップル達は身を寄せ合って
「わーおいしい」
などとはしゃぎながら食べ そのうち、何組かのカップルはお代わりを注文して、少し醤油をけちっている様子のおじさんに
「お醤油をもう一滴多くして」
などと言っていた。
私と妻は、もう我慢の限界をとっくに過ぎていた。
「おじさん、二つください。」
と言った。そして焼きたての蛤を受け取って龍馬像の脇のベンチで大事に、大事に、そして少しづつ食べた。食べ終わると妻と無言で顔を見合わせた。それは、お互いに
「もう一つ食べたいね。」
との表情であった。
しかし、私達は全てのお金をこの新婚旅行につぎ込んだので、この楽しい旅から帰ると厳しい新生活が待っていた。
当時、渋谷の恋文横町で中華そばが八十円で食べられたのだから、一個百円の焼き蛤は私達にとって余りにも高価であった。
二人は、黙っておじさんに小皿を返して、焼き蛤の匂いのしない浜辺へと遠ざかった。
波打ち際で、小さな貝殻を拾って遊んでいる妻を眺めながら、
「よーし、頑張って働いて、何時かこの桂浜へ来て焼き蛤を腹一杯食べよう。」
と誓った。あの日から、醤油にからまった蛤の味は、極上のまぐろの刺身より、霜降りの牛肉よりもおいしい記憶になった。
定年退職の初春、妻を連れて焼き蛤を食べに桂浜へ向かった。
しかし、あの時と同様に坂本龍馬が桂浜の向こうの太平洋を眺めていたが、付近一帯をどんなに探しても焼き蛤の露店を見つけることはできなかった。
そして、未だに龍馬が焼き蛤が好きだったという話の真否も定かでない。