教師をしていた私の母は忙しく、休みの日にはきまって、肉とピーマンのいためものが食卓にのぼった。あまり料理に手間をかけられない母だったが、その素朴なしょうゆ味はいかしていた。フライパンでいためるいい臭いが、今でもただよってくる気がする。私は幼いくせに、ピーマンが大好きだった。普段帰りもおそく、なかなか一緒の時間をもてなかったが、休みの日の食事は楽しかった。私のことは、全力で愛してくれた。
そんな母が、中二のとき亡くなった。一人っ子でのほほんとしていた私は、事実を受けとめきれず、途方にくれ、ぼんやりとした日々をおくった。
しばらくして、父娘の生活を心配した叔母の世話で、新しい母が、我が家にやってくることになった。理解しようとしても、対応しきれない自分がいた。
慣れるためにと、土日のたびに通いはじめた母は、ある日、あっけらかんとした調子で「チャーハンつくってみる?」といった。新しい母の手料理をはじめて食べた日だった。玉ねぎ、人参を細かくみじん切りにし、ハムを加えただけのものだったが、父と二人で市販のおかずばかり食べていた私にとっては、びっくりする美味しさだった。「最後に、おしょうゆをなべはだにジュッと入れるの」そんなふうに言っていた。
思えば、あのチャーハンの日から、母との距離は、少しずつ縮まっていった。ときにはぶつかり、ときには黙りこみ、それでも徐々に、私たちは家族になったと思う。
結婚し家を出てから、「私たちみたいにうまくいっている親子いないみたいよ、なさぬ仲ってやつなのに」とこれまた面白そうに言い放つ母。たしかに、里帰り出産をし、その後もなんだかんだと仲よくやっている。
私は今、五十才を過ぎ、自分の人生を振りかえるとき、不思議だなあと思う。ピーマンをみると亡き母を思い出し、私にくれた愛情の深さに、せつなくなる。同じ味が再現できているかどうか定かではないが、肉とピーマンのいためものは、娘二人の大好物だ。
そして今の母は、七十代も半ばだが、元気で、遊びにいくと張りきって、ちらし寿司やパエリアをつくる。手づくりのジャムを持たせてくれる。あの日のチャーハンにはじまり料理好きな母の口ぐせは、「何でもうちでつくるのが一番」だった。気づくと、娘たちに「何でも買える時代だけど、うちのごはんって美味しいよね」と自我自賛している自分がいる。
親の立場になり、娘たちを育て、二人の母への感謝の気持ちを強くしている。とともに、料理って人の心に残るものだなあと思う。美味しいものを食べると、人は優しくなるのかもしれない。
これから新しい家族をつくっていくであろう娘たちにも、上手でなくていい、人をあたたかくする手料理をふるまってほしい。