大阪生まれのわたしや母、祖母にとって、お好みやきはソウルフードといえる。中学、高校時代に母が作ってくれたお弁当にも入っていたし、祖母宅では、朝ご飯にお好みやきが登場したこともあった。留学したハワイ大学の寮の台所では、 「ジャパニーズ・ピザ」と呼んで、ハワイ産の ALOHA ショーユをかけて、 韓国の留学生が焼くチヂミと交換して食べあった。夫との初デートでも、もちろん、お好みやきと言いたいとこだが、京都でネギ焼きをいただいた。こどもの離乳食にも、ちいさなお好みやきを何枚も焼き、息子も両手でパクパク食べてくれた。初めてのお好みやき記念日に撮った愛らしい1歳の息子の写真を、いま見直すと、笑顔とともに、いろいろな思い出と涙がどんどんあふれてくる。
4年前の冬、人生で最大級のピンチに直面した日も、お好みやきを焼いた。 その3日前、起きたら、とつぜん、うまく話せなくなり、詳しい検査の結果、自分の左脳に腫瘍がみつかった。それは別の部位にあるガンからの脳転移で、他にも転移していることが判明した。いきなり、ステージ4のガン治療を始めた日、「普段どおりにせな」と、晩ご飯は迷わずお好みやきを作った。いつもの手順で使い慣れたホットプレートの左に息子、真ん中に自分、右に夫という定位置に生地を丸くひいて、天かす、豚肉、イカをのせる。目の前の三枚だけに全集中し、「せぇ~の」と勢いよくひっくり返していく。ジュワ~とこぼれ出たおしょうゆとソースの香りが家中に広がり、アツアツのお好みやきの上でユラユラと花かつおが踊りだす。わたしは青のり多めで、柚子七味もかけるおしょうゆ派。息子は天かすたっぷりで、カボスもかける塩派。夫はかつお節たくさんで、焼きそばソースもかけるダブル派。「いただきます!」と手を合わせ、家族で食べられることに感謝した。
その日、小学校から帰ってきた息子が、ランドセルを背おったまま驚いて叫んだ。「えぇ~、かぁちゃん、ガンなの!?」という声とともに、その晩に食べたお好みやきは、一生、忘れられないものとなった。日常のありがたさと家族のたいせつさを実感させてくれ、生きる糧ともなった。「ホンマ、生きることは食べること、食べることは生きること」と、あの世から祖母も応援してくれている気がする。夫からは「お棺に入ってしまったら、かぁちゃんの両手には、使いこんだお好みやき用のテコを持たせるからね」と言われ、「まだ、焼かんといてぇ~!」と大爆笑する。辛口ジョークで笑えるうちは、お好みやきを焼きつづけられると信じている。
ありがたいことに、脳腫瘍を放射線で治療をしたら、言葉は戻ってきてくれ、このように文章もまた書けるようになった。今の治療薬も、効いてくれている。昨秋には、新たなガンができて手術もした。「二人に一人がガンになる」といわれるなか、一人で二つ、しかも4+3で「ステージ7」のガン治療にむきあっているが、闘病よりも「共病」をめざしたい。
「共がん」生活を開始してから、141枚(3人分×47回)のお好みやきを焼いてきた。
これからも、お好みやきを焼いて生きたい。