それは昭和三十年代、私が小学生の頃の話だんだばて(なんだけど)。青森県青森市に両親と中学生の兄タケル、そして私ユミコの貧しくも楽しい家族が棲んでいたんだ。
夕暮れ時、友達とサイナラし家までの道すがら、家々の勝手口から何本も煙が上っていることが多かった。♬あっちの家でもサンマ、こっちの家でもサンマ・・・。という唄がラジオから流れていたっけ。
家に着くと、父が裏庭で何かやっていた。ギィーコギィーコ、ノコギリで飯台(ちゃぶ台)に穴を開けているではないか。
「何してら(る)の」尋ねる私には答えず、その直径20センチ程の穴に七輪をはめ込んだのだ、ズボッと。「おお、ちょんど(丁度)いいな」父は満足気にナヅギ(額)の汗を拭った。「のう(ねぇ)なんだの(なんなの)」「今日はジンギスカンだはんで(だから)」と母。わい(ハテ)、なんだべ(なんだろう)。
飯台に捕われた態で居る七輪に、真っ赤に熾った炭が入れられ、その上に見た事のない、カブトの様な物が置かれた。鍋か、これは鍋なのか。
母が台所から大皿に盛ったブタ肉とレバーを運んで来た。続いて大ザルに、これでもかと積まれたほうれん草。
父は鍋の上に掌をかざして温度を確認すると、鍋肌に脂を塗ってゆく。までぇに(丁寧に)、まんべんなく。父のナヅギには新しい汗が滲んでいる。
「タケル、窓開げでおげ(開けておけ)」さほど暑い陽気ではない。が、母が一枚肉を置く度に、ジューッジューッと旨そうな音が鳴り、白い煙がたちのぼり始めている。換気扇など無い時代だ。
「ユミコ、け(食え)。タケル、これももうくにいいど(食べられるぞ)」父が取ってくれた肉は、ただの正油が入った小皿に投げ入れられた。そこにコショーをバッバッと振り、左手に持ったご飯にチョンと正油を切って口へ運ぶ。すかさずご飯もかっ込む。
「ン、メェ~(う、うまぁい)!」「んだべ(だろ)?ジンギスカンてすんだい(ていうんだよ)」私は社会人になるまで羊肉でやるものとは知らずにいた。経済的理由と、母が獣臭を嫌ったため、我が家はたいていブタ肉だった。すき焼も、親子丼もー。あれは他人丼だったんだなぁ。
旨いのは肉だけではない。プリッとしたレバーも、焦げ目がついてキリッと焼けたほうれん草も、正油ちょこっと、コショーどばっとで頬ばる。
「窓全開にせへ(して)!」たまらず母が言った時には、狭小社宅の家中に白い煙がモワモワと充満していた。
64才で胃ガンで他界した兄が、病床で言った事がある。「ユミコ、あの、ウヂ(家)のジンギスカン、あれ一番めがった(旨かった)なあ」。
ジンギスカンとは呼べないのかもしれない。したばって(だけど)、色んなタレが出回っている現代(イマ)でも、やっぱし(り)“ウヂのジンギスカン”が一番めぇど思わさる(思ってしまう)んだいなぁ(だよねぇ)、私も。