「今日は大漁だ」
平日に激務をこなす父の楽しみは、休日の早朝からクーラーボックスを準備し、バイクに乗って釣りに行くことだった。
そうはいっても釣って帰ってくるのは小さなカサゴやアジばかりで、食べられるところは多くなかった。
それでも父は小さなアジを南蛮漬けにし、嬉々として振る舞ってくれた。
私が「骨が多いよう」と文句を言ったら、「仕方ないなあ」と言い、小骨を取って白ご飯の上にのせてくれた。
そして父は残った骨をポリポリと音を立ててつまみながら、「悪くないだろ?」と言い満足気に晩酌をしていた。
たしかに、濃いめの味つけは美味しかったし、少しの身で白ご飯をおかわりできるほど箸が進んだ。
だけど、徒歩3分のスーパーではもっと大きなアジが数百円で売られている。
なぜ早く起きて遠出をしてまで小さなアジを釣りに行き、手間暇かけて調理するのか、私には理解できなかった。
そんな、自由気ままな一方、家族想いでもあった父は、私が中学に上がる前に病気で突然他界した。
ファザコンな私以上に父との突然の別れを受け入れられなかったのは、母の方だった。
葬儀の次の日から、母は布団から出てこれなくなり、洗濯物も山積みになっていった。
幼いながらに「これはまずい」と察した私は初めて一人でキッチンに入り、鍋に火をかけた。
そして、10分も茹でてしまいくたくたになったラーメンを母のもとに持っていった。
母は「ごめんね」と泣きながら三口ほど口に入れると、「もう大丈夫」と言い、また布団に戻った。
それからも、卵がカチカチの親子丼、コクのない味噌汁、黒こげの卵焼きなど、なんとも切なく不器用な献立が続いた。
1か月ほど経ったある日、学校から帰ってくるとキッチンから懐かしい出汁の匂いがした。
「もう大丈夫だから。迷惑かけたね。」と、母がかつ丼を作ってくれていた。
骨壺を横目に、「ちゃんと見送らないとね」と二人で食べたかつ丼には、出汁だけではなく涙まで染みこんでいた。
「ゆうこが卵焼きの焦げを一生懸命取っている姿を見て、自分は何してるんだろう、しっかりしないとって思えたんだよね。」
四十九日を終えた母は、申し訳なさそうに話した。
父の十七回忌を終えた今、私は30歳になろうとしている。
時間の取れる休日は、パンをこね、発酵させ、オーブンで焼く。
焼きたてパンの香りを目いっぱい吸い込み、熱々をほおばるのが、5歳の娘との楽しみだ。
「でもさ、そこのパン屋さんでもすぐに買えるのに」と娘は言う。
昔の自分を見ているようでおかしくなり、私はふふっと笑いながら「そのうちわかるよ」と返す。
プロが作るパン屋さんのパンも、企業が改良し続けている袋麺も、もちろん美味しい。
だけど私は、手間と愛情をめいっぱいかけた食事の温かさも家族に伝えていきたい。
父の作る小さなアジの南蛮漬け、私が作った黒こげの卵焼き、出汁がきいた母のかつ丼。
それは、父が笑っていたとき、私が母の支えになれたとき、母と二人で前を向こうとしたときの思い出。
かけがえのない日々を想うとき、心に残るのはきっと「家族の味」だから。