あれから遠く六十五年の年月が流れるが 時折、稲荷ずしを食べると、義母の親心が温かく思い出されてくる。
私二十四歳、妻二十二歳の時、名古屋で知り合って結婚する約束をして、二人連だって妻の実家である九州宮崎の親元へ、結婚を認めてもらいに行った。
義母には、快(こころよ)く受け入れてもらい、夜行列車で帰えることにすると、
「夜汽車は腹が空(す)くから、途中でこれを食べて行きなされ」
と、新聞紙包みの弁当を持たせてもらった。
列車は、たしか都城発の名古屋行き夜間急行であったと記憶している。
夜の日豊線は、ほの暗い座席に揺れながらも、義母の許しを得た安堵(あんど)に、うつらうつらとしながら、真っ暗闇のどの辺りを走っていた頃だったのか、新聞紙包みを開けると、竹の皮の包みが二つあり、それぞれの中には、握りこぶしほどもある特大の稲荷ずしが、二つづつ包まれていた。
陶器製で緑色した、手の平に載せるほど小さな、やかん型の茶瓶(ちゃびん)のお茶を飲みながら、二人肩寄せ合い、将来の希望を胸にして、おいしく頬張(ほおば)る稲荷ずしは、醬油(しょうゆ)で甘く煮染(し)めたあぶらげに五目ずしが詰めてあり、少し固めににぎられていた。
六十数年を経た今も、時々妻が作ってくれる、母親ゆずりの稲荷ずしを口にすると、知らず知らずのうちに、心耳には、かすかにガタンゴトンとレールの音が聞こえ、脳裏には、どこかの集落の明かりが、ほのかに一つ二つと、漁火(いさりび)のように車窓に流れる様子や、稲荷ずしが、なぜか妙に、少し固めであったことが思い出されてくる。
当時五十代半ばであった義母は、女手一つで苦労しながら、男の子三人と娘一人を育ててきたその娘は、地元宮崎で結婚してほしかったであろうに、それが遠い見ず知らずの男と一緒になることに、少なからずの不安を抱いたと思われる。
けれども、娘が望むならと、寂しさをこらえながら、持たせてやる弁当の稲荷ずしをこしらえる時、おそらく私には、
――どうか娘をよろしく頼みます。
娘には、
――母のことは心配せんでいいから、末永く幸せに暮らすんだよ。何ひとつしてやれないからすまんよ。許しておくれよ。
と、母親としての切ない思いと、幸せになってくれよ、幸せになるんだよとの熱い願いが、つい腕から指先へと伝わり、はちきれんばかりに詰めてにぎった、少し固めの、こころの稲荷ずしになったのに違いない。
振り返えれば、起伏の多かった長い結婚生活で、事あるごとに、亡き義母の母心が、少し固めの稲荷ずしの思い出を伴って、温かく支えてくれた。