三条九丁目にあったからだろう。道央A市のその小さな店の暖簾には、「サンキューおにぎり」と書かれていた。初老の夫婦が切り盛りしており、早朝の店番は決まってご主人のほうだった。“大将”と呼びたくなる風格。その手が生み出すおにぎりはどれも美味しかったが、一番は何といってもツナだった。いわゆるツナマヨとは全く違う。何で味付けしているのだろうと、口の中でいくら分析してもわからなかった。わかるのは、黒コショウがいい仕事をしているということだけ。
「ツナ一つください。」「あいよっ。」包んでもらっている間に、ある日思い切って味付けの極意を尋ねてみた。大将はいたずらっぽい目で言った。「そりゃあおめえ、ヒ・ミ・ツよ」。
次に行くと、今度は向こうが聞いてきた。「おめえ、H高か。」「はい。」言った途端に直感した。あ、また生徒と見られてるな…。H高は制服がない。新卒で赴任した上に、スーツも化粧も嫌いだった私は、しょっちゅう生徒と間違われた。最初に担任を持った年の学級だよりの名前は「めだかの学校」。理由はもちろん「だぁれが生徒か先生か~」だ。何せ、4月は校門前で塾のビラを渡され、大雨の日にタクシーに乗れば生徒玄関で降ろされる。そんな時、「実は…」と言って相手を恐縮させるよりは、生徒になりすますのが常だった。だからこの時も、敢えて何も言わなかった。H高。(…に、勤めてます)と心の中で言い足して。嘘は、ついてない。
ところが、しばらく経つと今度はこう尋ねられた。「おめえ、何年生よ。」どうしよう、と思ったが、口が勝手に動いていた。「二年生。」(…の担任よ)、と急いで心の中で言い添える。微妙だが、多分嘘はついてない。
驚いたのはその翌年だ。「おめえ、どこの大学行くのよ。」学年をちゃんと覚えてくれている。どきんとしたが、留学の可能性を探っていた私は正直に答えた。「まだ、わかりません。」「そうか。ま、がんばれよ。」
三年生の担任は忙しかった。放課後講習、模試の監督、個人面談。弁当を作る余裕がなく、おにぎりに頼る日が増えた。4時間目を終えて開ける紙包みの、何と有難かったこと。ツナは中心だけでなく、三つの辺と三つの角に及んでいた。ご飯を広げて具を敷き詰め、ご飯で覆って握っていたに違いない。ずしりと重く、最初の一口から最後の一口まで楽しめた。うん、これで夜まで頑張れる。
奇しくもその年、担任したのは三年九組。学級だよりは「さんきゅうレター」と命名した。担任の未熟さを許してくれる、大切な41人への感謝。大将にあやかって、少しでもいい仕事がしたかった。この子たちを送り出したら、真の身分を白状しようか…。
しかし三月、私は退職に骨折が重なって、白状どころかお礼も言えずに町を離れることになってしまった。1994年のことである。次にA市を訪れた時、懐かしの暖簾はもうなかった。
大将が存命だったら伝えたい。通学、いや、通勤を支えてくれた温もりのお礼を。そしてもう一度尋ねたい、味のヒミツを。