あの時の秋の夕暮れの様子が浮かんでいる。「昨日のことのように覚えている」という慣用句があるが、今まさに五十五年前の光景が鮮明に蘇っている。
私は中学三年生、秋の文化祭が間近にせまっていた。私たち生徒会の役員は連日その準備に追われていた。帰宅時間も夜の七時を回る時もあった。秋の夕暮れは早く、外はすでに真っ暗だった。
「おい、Sを家まで送って行ってやれ。」
先生は僕に言った。女生徒のSだけ市街地でなく、郊外に住んでいるので、安全のため送れとの指示だ。これで五回目だ。僕は顔の赤くなるのを感じながら、「はい。」と小さく返事した。
僕の約二メートル後を彼女は歩いてついてくる。彼女の家は学校から徒歩で二十分の距離だ。僕たちは一言も口を利かない。だが僕は、後ろに彼女のいることを全身で感じ緊張していた。
彼女と僕は同じクラスから選ばれた生徒会役員だったので、普段は良く話す方だった。生徒会の作業中も昨日のテレビの話などを良く話していた。だが二人だけになると、何かわからないものが僕を包んで黙り込ませた。彼女もそれを感じてか、ただ黙って僕の後をついてくるだけだ。だが、その二十分は僕にはあっという間だった。彼女の家の灯りが見えている。家の前では、いつも、彼女の母が待っていてくれた。
「K君いつも送り、ありがとうね。」
と言って、僕に白いチリ紙に包んだお菓子を渡してくれた。其の包みには、赤とピンク、そして緑、青、白色の星形をした金平糖が一握り入っていた。僕は、その金平糖をなめながら帰路を急いだ。今までの不思議な緊張感から解放され、甘さが口いっぱい広がっていた。ぬくもりのある不思議な、小さな幸福感を全身に感じていた。
彼女とは縁あって結婚した。三人の子供にも恵まれ幸せな日々を過ごしていた。
妻に乳がんが見つかったのは、僕が退職して、これから二人でのんびりと過ごそうと思った矢先だった。妻の手術後、病院に見舞いに行ったとき、あの中学時代の金平糖の話をした。あの口いっぱいに広がる甘さを伝えた。妻は微笑みながら聞いていた。
「私も、金平糖を、食べてみたいな。」
と妻は小さな声で言った。次の日、病室に金平糖をもっていくと、妻は、数粒口に入れると、涙を流しながら、「甘いけど、チョットしょっぱいな」と言った。これから数日後に妻は息を引き取った。
妻の仏壇の前に金平糖が供えられている。白いのを一粒口に入れた。甘さが伝わらない。どういうわけか不覚にも涙が流れた。もう中学時代に全身で感じた、あの不思議な甘さは二度と訪れてこないと思った。