九年前の夏、私はそれまで経験した事の無い膝の腫れと痛みで、歩く事もままならなくなっていた。そんな私を心配して、高校生の娘は自転車を飛ばし帰って来たのだろう。
「遅くなってゴメン!私が夕飯の支度をするから、お母ちゃんは休んでいて…。」
そう言うと、汗も拭わず台所に立った。しかし、戸惑いを隠せない様子だ。娘は調理実習以外、殆ど料理をした事が無かった。それは私が何でも自分でやらなければと躍起になり、娘の手を借りる事も、手ほどきさえもして来なかったから。大切な事をなおざりにして来たからだ。娘のその表情は私に猛省を促した。
娘は制服を脱ぎ、大きく腕まくりをすると、買い置きの根菜と肉を手に、初めての肉じゃが作りを宣言。私はその横で痛めた足を椅子に放り出す様に腰を掛けた。そして肉じゃがの作り方をゆっくりと丁寧に説明した。娘は大きな目と小さな鼻をクシャッとさせ、不器用な手つきで孤軍奮闘。真剣に何かをする時のこの表情は、子どもの頃から変わらない。
ほどなく、台所にはじゃが芋の煮えるコトコトという音と、フワッと優しい香りが広がった。何度も味見を繰り返し、ようやく完成。不揃いな肉じゃがと、娘の笑顔がその日の食卓を飾った。これを機に、私達は台所での距離を少しずつ縮めていった様に思う。
娘は大学生になり一人暮らしを始めると、SNSに自炊の写真を投稿する程になった。パスタ、豚汁、ぶり大根と、工夫をしている様子がスマホ越しに伝わって来た。
とりわけ驚いたのは、夏休みに帰省した時振る舞ってくれたキムチ入り肉じゃがだ。甘じょっぱく味付けられたじゃが芋にキムチと玉ねぎがほど良く絡み、ビール好きを唸らせる絶妙な味だ。その出来栄えに、私は母親の役目を一つ終えた様な寂しさを感じていた。その時、マジックショーさながらのハプニングは発生した。娘が手にしていたおたまがグニャリと大きく曲がってしまったのだ。「年季が入っていたからね…。」と顔を見合わせ、腹を抱え笑った。このハンドパワー事件は、初めての肉じゃがと共に、おいしい思い出として私の心の中に大切に納められている。
娘がこの世を去ったのは、それから二年後の事だ。主を失った冷蔵庫には、じゃが芋と玉ねぎ、人参が残されていた。娘の肉じゃがを口にする事はもう叶わないのだと、私は何度も自分に言い聞かせなければならなかった。
台所はまた私一人の場所になった。不規則に響く包丁の音も、笑い声も聞こえない。記憶を手繰り寄せる様に、ゆっくりと丁寧に肉じゃがを作る。口一杯に頬張るとあの日の光景が甦り、笑いと涙が溢れてくる。かけがえのない時間の中で娘が私に教えてくれた大切な事を、家族が笑顔で食卓を囲める日常の尊さを、じゃが芋と一緒に噛みしめる。そして、娘の肉じゃがには敵わないなあ…と苦笑いをしながら、肉じゃがの様にほっこりと素朴で、優しかった娘に思いを馳せる。