私が幼い頃、家庭は大変貧しかったです。
父はサラリーマンで、子供は男の子ばかり三人で、私は末っ子でした。
父の考えは、女房は家に居て、家庭を守れと言う古い考えの人でした。
そもそも母は身体が丈夫ではなく、外の仕事には出られないので、空いた時間に内職の仕事をしていました。
おそらく、父の収入だけでは生活が苦しかったのだと思います。
仕事の内容は袋詰め作業でした。
父が帰宅する時間までには内職を終える様にし、父が帰宅してからは内職をする事はありませんでした。
想像になりますが、母は内職の事を父に知られない様にしていたのかもしれません。
母は限られたお金の中でやりくりしていたと思います。
父、子供の必要な物は、切り詰めて買っていました。そして、父と子供には、決して豪華ではありませんが、許せる限りの食事を作りました。
そのため、本当に自分の物は必要最低限の物しか買わない人でした。
また、自分の昼食は慎ましく済ませていた様に記憶しています。
それなのに父は毎晩、晩酌をしていました。キリン瓶ビール1本とサントリー角瓶を1メモリ(角瓶の柄1マス分)
私は、父にも感謝をしていますが、お金のかかる晩酌をする父が嫌でした。
そんな母の一番好きな食べ物は鶏の骨付きもも肉の照り焼きでした、今で言うローストチキンです。
でも、しばらく食べていないのを知っていた私は、次の母の日に、何としてもローストチキンをプレゼントして、食べてもらいたいと考えていました。
昭和36年頃の話です、かしわ1本が定かではありませんが、100円前後の価格ではなかったかと思います。
私は小学校1年生で、お小遣いはまだもらっていませんでした。
ふだんは、母の市場への買い物について行き、駄菓子屋で何かを買ってもらっていたので、自分で駄菓子屋に買いに行く事はまれです。
駄菓子屋に行くと嘘を言って、5円か10円を母からもらい、駄菓子屋で使わない事を重ね、何とか5月の母の日に間に合う様にお金を貯めました。
母に嘘をついているのが嫌だった事を覚えています。
そして、待ちに待った母の日にローストチキンを買い、プレゼントをしました。
母は、驚きながら「お金はどうしたの」と聞きます。
私は、駄菓子代の5円、10円を貯めていた、嘘をついてごめんなさいと言うと母は泣き出してしまいました。
そして、ありがとうと言って、美味しい、美味しいと言って食べてくれました。
私は、母が大好物のローストチキンを本当に嬉しそうに食べている姿を見て涙が出るくらい嬉しかったのを鮮明に覚えています。
母が他界して今年で33年、今年私は、母が旅立った年齢になりました。
あなたの優しさの中で育まれた事を決して忘れることなく、これからもあなたへの感謝の気持ちを持って生きて行きたいと思っています。
本当に、あなたの子供に生まれて来て良かったです。
ありがとう、お母さん。