三年前の事、「結婚記念日に、鰻重を食べに行きたいね」私は折り込みチラシを指差しながら夫を誘いました。
夫は夏の終わり頃から食欲が落ち、通院のかいもなく痩せてきていました。大好物の鰻なら食欲もでるかもしれないと思ったのです。
以前、自宅近くに鰻屋さんがありました。注文してから捌き焼く鰻は、ふっくら香ばしく絶品でした。お祝い事や、子供達が帰省した時など、家族揃って食べるのがちょっとした贅沢な楽しみでした。しかし店主の病気で閉店。おいしい鰻重とも疎遠になっていました。そして今回の鰻重への思い出とつながります。
四十一回めの結婚記念日は冷たい雨が降っていました。仕事を終えた夕方、予約した店へ車で伺いました。いつもの様に夫は助手席です。案内された席は、大きな額縁のような窓から中庭が見えました。ライトで照らされた紅葉や苔は、雨で美しく光っていました。 お目当ての鰻重と、本日のおすすめと書いてあった白子の天ぷらを一皿注文しました。夫は鰻重を完食し、天ぷらもふたりで分けて頂きました。おいしそうに食べる夫の姿を久しぶりに見て、来て良かったと私も安堵しました。
帰りの車中、「鰻重おいしかったね」と私。少し間をおいて夫は、「そうかなあ、俺はお前さんの作るご飯が一番おいしい」と言ったのです。思いがけない返事に、私は返す言葉も思いつかず、笑ってごまかすことしかできませんでした。その時のワイパーが雨を弾く様子や、見慣れた家並がことばと一緒に心に残りました。
結婚後、病気らしい病気をした事のない夫でした。手の施しようもない末期癌と告げられたのは、そのわずか一週間後のことでした。三日後に入院が決まり、その前日、娘と息子一家が顔を揃えてくれました。久しぶりに全員が揃い、孫中心のにぎやかな食事風景でした。りんごとヨーグルトを食べた夫は、横になり穏やかな表情で皆の中にいました。
新型コロナの影響で病院は会うことができません。家に帰りたいと訴える夫。私はその望みを叶える為、迷うことなく退職し、準備に奔走しました。そしてやっと退院できたのは入院から一ヶ月後のことでした。孫が来た時は笑顔を見せてくれましたが、自宅に戻って口にできたのは、氷のかけらと、わずかな水分だけでした。
「お前さんの作るご飯が一番おいしい」と言ってくれた日から四十日余後、夫は旅立ちました。私の作るご飯は、夫が畑で収穫した野菜中心のごくありきたりのもの。これでもかと厚く切った大根がメインのおでん。大きな野菜ゴロゴロのポトフ。ただの塩むすびなど。私達は食べる事が大好きでした。
ひとり暮らしの今、夫が言い残してくれたその言葉に、心の隙間を埋めてもらったり、励まされてきました。ありふれた一日に感謝しながら生活できているのも、夫のお陰と仏壇に手を合わせ、話しかける日々です。