私が幼いころ、父の仕事の関係で転勤族だったこともあり、学校が長期の休みになると母の実家に帰省した。見渡す限り水田風景が続き、冬にはつらら、夏には蛍が飛び交った。日本の原風景がそこにはあった。親戚が集まると恒例の食事会。すると決まって祖父は食事が終わるころ、
「米、一粒も残してなんね。ばちあだっからな。」
と言った。幼心に私は怖くて、お茶碗をしっかりと抱えて最後の一粒も残さないようにきれいに食べた。
父が癌で早逝した後も変わらず母の実家には頻繁に帰省した。
「米、あんだが?もってぃぐか?」
帰省すると祖父はいつも必ずそう聞いてくれた。米農家だった祖父は母子家庭になった我が家に米の貯えがあるのかを気にしてくれていた。そしていつも米袋を車に乗せてくれた。
農家出身の母は料理が得意。私と弟の学生時代は無論、必要な時はいつでもお弁当を作って持たせてくれた。
私が大学生になった時だった。お昼休みには
「永山のお弁当のご飯、一口いい?」
と、親友の貴子がお箸を伸ばしてくる。お箸を大きく広げて一掴みすると、パクリ。何度もうなずきながら噛みしめていた。
「この白いご飯、本当においしいよね。」
と言うのだった。私は祖父母たちが丹精込めて作ったお米が褒められるのを誇らしく感じた。しかし、おかずではなくて、ましてや白いご飯だけを食べる彼女が当時の私には少し不思議だった。
そのお米が、皇室への献上米に選ばれたのもちょうどその頃だった。
白くてつやつや。それだけで何も要らなかった。
「永ちゃんちにお米をお願いするようになってから家族に、ご飯を食べる時ふりかけ必要ないね。って言われるのよ。」
と、友達のお母さんに言われたこともあった。私にとってはこのお米が“いつもの”味で、当たり前に傍にあったせいか、当時お米の味を私自身あまり気にとめたことがなかった。そしてそのお米は祖父母が亡くなった後も、伯母が私たちに届けてくれた。
しかし、あることをきっかけにそのお米がいかに美味しかったのか、ということに気づかされることになる。
今ではもう東日本大震災時の原発の放射能の影響で食べることも、生産することすらできなくなった。その時から私たちはお米を買って食べるようになった。
福島県双葉郡大熊町。そこが母の実家のあった場所だ。
もうあのお米は食べられなくなってしまったが、思い出す度、心に浮かんでくる故郷の景色。育んでくれた人々の笑顔と温もり。ほっこりと気持ちが和んでいき、そっと背中を押してくれるような気がする。離散してしまった親戚みんなが何処にいても同じ故郷の想い出を胸に抱いて繋がっているのだ、と勇気をくれる。
長い時間が必要だと思う。しかし、いつかまた私たちの故郷が美味しいお米を育む風土と美しいあの水田風景を取り戻し、それぞれのお米の想い出を後の人々に伝えて、日本の食を支えてくれる日が来ると信じている。