私は食べ物に関して好き嫌いはありません。好き嫌いがないと言うよりは、できなかったと言う事です。魚、肉、野菜など何でも食べます。何であれ食べ物があると言う事は幸せな事です。そんな私にも八十才の生涯の中で心に残る食べ物があります。私が三才の時に中国へ出征していた父が戦死し母は二十四才で寡婦となってしまいました。私は父の記憶がありません。その頃東京の大森に住んでいたのですが空襲に合い母は三才の私をおぶい六才の兄の手を引いて戦火の中を逃げ回り 何とか生きのびたものの家はなくなりました。祖母のつてを頼りに埼玉の岩槻へ疎開してお寺のはなれを借りて母子三人の生活が始まりました。母は職もなく生活保護を受けていましたが苦しい毎日でした。一週間何も食べず水だけ飲んでいた事もありました。お寺のお墓のお供へものを食べた事もあります。
学校へ行っても、その頃は給食もなく、弁当もなかったので昼休みは毎日一人で校庭で遊んでいました。兄は中学を出るとすぐ里子に出され 母娘二人の生活となりました。母は 洋服作りの職人さんの家へ住み込みで仂く事になり私はコブ付きで母の部屋で暮らす事になりました。早く大きくなって仂きたいと、ひたすら我慢の日々でした。そして中学を出ると母と一緒に洋裁の仕事をするようになりました。洋服店のご主人はとてもキビしい人でしたが、今思って見ればお陰で洋裁の仕事をミッチリ仕込んでもらい、のちには随分と頼りにされる程になりました。何とか母の助けになればと思い仕事にはげみました。
母は私が厄介者で冷たくされるのを見て自分の事以上につらかったのだと思います。ある日母からこんな事を言われました。『啓子二人で死んだお父さんの所へ行こうか』私はビックリして『お母さん私はどんな嫌な事でも我慢するからそんな事を言わないで』あの時私がもし同意していたら今日はありません。そんな苦しい日々が続いていた頃に運命の日を迎えたのです。私が二十二才の春でした。生れて始めてお見合いをする事になったのです。お仲人さんの家で相手の男性と会い色々と話をしていて丁度お昼だと言う事でお寿司が出たのです。これが運命の食べ物であったのです。私は魚が好き、刺身が好き、そして寿司も大好物でしたから緊張しながらもキレイに全部頂きました。そしてあとで仲人さんの仰るには、あの場で出された物を食べたと言う事は相手が気に入ったと言う事でこの縁談は断れませんよと言われ私はビックリそんな事は聞いてませんでしたから。あの状況で寿司を食べないと言う事は私の選択肢にはありませんでしたね。あとで聞いた話では相手の男性も始めての見合いで食べたらOKなどと言う事は聞いていなかったとの事でした。
でもこれがご縁でそれから丸一年間お休みの度にデートして結局ゴールイン。今の主人がやさしくまじめな人で二人の男子に恵まれ、今は孫もいて人生で今が一番幸せです。