「アブラゲ(油揚げ)揚がったよ。」という母の元気な声に呼ばれ、家の台所とつながっている豆腐屋に皿を持って顔を出す。
その皿に、厚さ五センチ、縦横(たてよこ)十センチぐらいの正方形の厚揚げを載せてもらう。揚げたてのパチパチした音が聞こえ、こんがり黄金色に輝く、パンパンにふくれた厚揚げだ。それをこの辺りではアブラゲと呼ぶ。
そのアブラゲに、しょう油を垂らして箸を入れる。サクッとした表面の皮から、とろっとした白い絹ごし豆腐のような木綿豆腐が出てくる。その熱々をほおばると、油の香りのする皮の香ばしさと豆腐の旨さとほのかな甘みが口中に広がる。一枚食べるのに時間はかからない。ペロリとたいらげる。たまに、母が大雑把に刻んだネギを載せてくれるが、しょう油だけで十分だ。
しかし、このアブラゲは、今はもう食べられない。二年前の年の暮れ、母が切り盛りしていた豆腐屋を辞めたからだ。母が嫁いで、五十年近くの間、八十歳になるまで守ってきた店だった。
私は、昭和三十九年に黒部の田舎にある小さな豆腐屋に生まれた。当時は、祖父母、父母、姉、弟の七人家族だった。父はバスの運転手をしていたので、母が毎朝四時に起きて豆腐を作った。昭和の時代、盆と正月の一日ずつぐらいしか休むことなく働いていた記憶がある。そうして私たち兄弟(こども)を育て、家計を支えてくれた。
母の作る豆腐は、黒部の山や川、豊かな自然が育む、おいしい井戸水を使っていたこともあり、「おいしい」と評判がよかった。母は苦労が滲み出た職人の手で豆腐を作り、お客さんと話をし、喜んでもらうことを生きがいにしていた。
子供の頃から揚げたての油揚げを食べる機会は何度もあったはずだが、逆にいつでも食べられるという気持ちがあったため、それほどよく食べた覚えもない。
私が結婚し子供が生まれてからもアブラゲを食べる機会があった。夫にとっては珍しいものであり好んで食べた。子供たちも「おいしい。」と言って食べ、笑顔になるごちそうだった。
いつでも食べれられるものと思っていたアブラゲが食べられなくなった今でも、あのおいしさは舌に残っている。あの味を思い出すだけで、口の中につばが出てくる。もっと食べておけばよかったとも思う。アブラゲの他に「豆腐屋にしか食べられない」と母が言っていた「よせ豆腐」がある。それは木綿豆腐になる前の、豆乳ににがりを打った状態のフルフルとした豆腐だ。それにしょう油を少し垂らすだけで、豆の甘みが口いっぱいに広がる温かくとろっとした幸せな味。
豆腐屋の灯りが消えて間もなく、父は認知症を患い、施設のお世話になっている。家に一人で住んでいる母は少し淋(さみ)しげである。子供の頃、「アゲ(油揚げ)の匂いするな。」「とっぺ屋。」等とからかわれたこともあったが、母の人生がつまった自慢のアブラゲの味を知っている私は幸せだった。