私は昭和17年、戦時中に生まれた。
不思議な事に、当時3才にも満たなかった私が、今でも鮮明に憶えている光景がある。
それを母に話すと、「小さかったお前が、どうしてそんな事を憶えているのかねえ?」と怪訝な顔をしたが、それはきっと私が小さい頃から食い意地が張っていたのだろうと思う。
その光景とは、その頃我家にあった木製のラジオから「ウーウーウー」と警戒警報が流れ、部屋中の畳が合掌造りの屋根の様に立てかけられていた中、私達子供は靴を履いたまま食卓の前に座らされた。当時は「産めよ、ふやせよ」の時代で我家も五男三女の大世帯であった。その時父が「今日で家族はお別れになるかもしれない。今から皆で一緒に玉子かけごはんを食べよう!」と言った。今でこそ卵というと店先に山と積まれて売られているが、昔は玉子一つ運ぶのでさえ子供心に手が震えたものである。
白いごはんに、お月さんの様な黄色い玉子、醤油をかけてもらい、口にしたあの時の玉子かけごはんの何んとおいしかったこと!!
戦争の恐ろしさも忘れてただただ夢中で食べた。
終戦後日本は苦しい食料不足が続き、小学校時代、弁当を持って来れない子が沢山いた。
身体の小さなY子ちゃんもその一人で、昼休みになると決まって一人校庭の砂場で遊んでいた。その姿が可哀想で母に話すと、週に何度かYちゃんを家に呼んで昼ごはんを食べさせてくれた。その時母が用意してくれた玉子かけごはんを目にした時のY子ちゃんのびっくり顔!! そしてすまなそうに、はにかみながら食べていたその姿を今も想い出す。
そんなある日「竹カゴはいらんかねー。」と言いながら物売りの男の人が何度も行き来しじっと我家を覗き込む姿に、不審に思った母が外に出てみると、沢山の竹カゴを背負った男の人が「ワシはY子の父親です。いつも娘が世話になっているそうで、すみません。これはワシが作った竹カゴですけん、使うて下さい」と投げる様に母の足許に竹カゴを、二、三個置いて立ち去ろうとしたらしい。慌てた母が「お父さん、これは大事な売り物でしょうが!今お代を・・・・・」と言っても聞かずに走り去ったそうである。まだ幼かった私はその話をただ「ふーん」と聞き流してしまっていたが、歳を重ねた今になって、玉子かけごはんを目にすると何故か遠い昔の思い出が蘇り、胸がいっぱいになる。
あの時代の親が子を思う切ない心情、そして決して裕福でもなかった我家の台所事情にもかかわらず他の子供をも思いやる母の広い愛の心に改めて尊敬の念を抱くのである。
今、口にする玉子かけごはんの味が、何故か昔のそれと違うように感じられるのは、ちょっぴりほろ苦く、切ない当時の想い出という調味料が加わるからではなかろうか。貧しかったが人の心が温かかった良き時代だった。