生きてるよ――わずか5文字のメールが届いたのは翌日、昼近くのことだった。あれからすでに5年が経つ。その年の3月11日、大学生だった息子は仙台にいた。連絡がとれないまま、テレビが伝える衝撃的な映像に不安だけが膨張していった。
テレビの前にパソコンを2台据えて、画面に流れるテロップに息子が暮らす泉区の2文字を探した。給水が始まった、食料が配布されている――避難所の情報に、地図サイトで確認したアパートからの道順を書き添えて送信し続けた。一向に返信はなかったけれど、できるのはそんなことだけだった。
年老いた母もどんなに孫を心配していたことだろう。だが、何も言わずただじっとテレビを見ていた。
「桜海老と人参は赤いだろう。だからお祝いなんだよ」
母の教えに従って、妻は家族の誕生日や節句はいうにおよばず、他国の神の誕生日までを赤飯で祝う。炊き上がる蒸気が勢いを増すと、隣のコンロで「おから」も作る。
人参を銀杏切りにして、桜海老をうんとこさ入れる。葱と竹輪も加えて、醤油と砂糖などで味付けして炒り煮する。しっとり加減と桜海老の香ばしさがおいしさの肝だ。水分が多過ぎても少な過ぎてもいけない。いい塩梅だと口の中で海老の香りが際立ち、葱の香りと相まって、実にうまい。これこそが記憶に刻まれたおいしさで、他所のものはどこか心地が悪くて箸が進まない。直伝の味を妻が受け継いだおかげで、わが家の祝いの食卓には今も主役の赤飯におからが寄り添う。
「お帰りなさい」
息子が無事に戻った日、妻は好物の鳥の唐揚げをてんこ盛りにした。そして、母はおからだけを作った。この日のおからは、寄り添う相手がいなくて所在なくみえた。
「お祝いなのに、お義母さんが赤飯はやめようっていうから」
5文字のメールが届いた翌日、夜更けになってようやく息子の元気な声を聞けた。水と食料を求めて並んだ列に先輩をみつけ、実家の岩手県奥州市に身を寄せることができたという。先方のご両親にお礼を言う妻が泣いていた。物資が足りず、避難所では水や食事を遠慮したこと。余震が続いてアパートにいられず、焚き火にあたらせてもらって夜を過ごしたこと。多くの人に助けられたことを知って涙が止まらなかった。
「お前が無事で良かったが、向こうはまだまだ大変だ。本当のお祝いをしたら申し訳ないから、赤飯はもっと先にしような」
孫に向かって、母がこう言った。赤飯がなかった理由を知ってはっとした。世話になった方々に感謝し、無事を喜ぶ家族の中で、母は料理で被災地に寄り添っていた。孫を助けてくれた多くの人へ思いを寄せていたのだ。桜海老が香ばしくて、甘じょっぱいおからのおいしさがさらに深く記憶に刻まれた。