湯の音がする。どうやら父が農作業を早めに終えて、湯に浸かっているようだ。風呂から出ると父は無言のまま、着物に着替えた。私は父がいつものように、「寺に行く日だ!」と思った。物静かで、無口な父は私にはどこか怖い存在。だが、出掛けた父の帰宅が楽しみでしょうが無い。父に会いたい訳ではない、父が持って帰るはずの土産が待ち遠しいのだ。
夜9時を過ぎた頃、玄関を開ける音が聞こえた。待ちかねた父の帰宅だった。私は素早く布団を抜け出した。父が手にする土産に瞳は釘づけになる。「まだ起きていたのか」と父は一喝するが、怒ってはいない。土産の風呂敷包みをほどくと、お重の上にバナナが一本乗っかっている。母が姉妹分を包丁で均等に切り、「ほら、食べ」と優しく言う。バナナを食べていても、父の動きが気になる。父がお重の蓋を開けた。私は急いで、中を物色。食べたことの無い、肌色の四角い一品を摘み上げた私を見て、父は、「高野豆腐は子供には危険だ!水分を沢山含んでいるからな。子供が食べれば、身体中の水分を吸い取られてしまう」と冷静に話す。私は慌てて、お重に戻した。父はまるで大人の特権かのように、高野豆腐をパクパクと食べ始めた。更にもう一つ父が高野豆腐を摘まんだ時、私は父が死にはしないかとドキドキした。が、傍らに座る母は何も言わない。私も怖い父には何も言えない。「いくら力持ちのお父ちゃんでも、二つも食べれば危険すぎる」と思いながら布団に入った。翌朝、父はいつもと変わることなく農作業に出かけた。「やっぱり、お父ちゃんは強い」と私は嬉しくなり、踊るように歩き、幼稚園に行った。
何歳頃から高野豆腐が食べれるようになったのだろうか。定かではないが、少なくとも小学校低学年までは父の言葉を信じ、食さなかった。早く大人になりたい、一体どんな味がするのだろうかと待ち遠しく思っていた。
戦時中、戦後と食糧難を過ごした父の大好物は高野豆腐と後に母から聞かされた。その後、初めて高野豆腐を食べた時、口の中にジュワーと甘い煮汁が溢れ、キュキュとした食感に、私は実に美味しいと感じた。怖くて、食べることが出来なかった未知の想いが、余計に高野豆腐を美味しく感じさせたのかもしれない。
大人になり高野豆腐を食べる都度、決まって、あの夜に聞いた父の言葉を思い出す。そして、子供だましのような言い分にクスッと笑ってしまう。高野山に行き、精進料理のフルコースを食べた時、高野豆腐のいわれを詳しく知った。食卓に上がるとき、決して主役を張らない脇役のような存在ではあるが、高野豆腐は長い歴史を持つ、栄養満点の保存食の一品なのだと・・・。
今年の父の命日にも、薄口醤油と味醂で味付けし、たっぷりの煮汁で煮込んだ高野豆腐を仏壇にお供えした。「お父ちゃん、さあ、沢山食べてね」と手を合わせながら。